『源氏物語上・中・下』/角田光代/河出書房新社
『源氏物語上・中・下』/角田光代/河出書房新社

 その一方で、とてつもないリアリティーが存在している『デクリネゾン』にも引き込まれました。2度の離婚を経て娘が1人いる30代の作家の主人公には、まだ20歳そこそこの男性の恋人がいる。正しい日常からずっと逸脱し続け、生きることの苦しさが文章の中に絶えず存在している。この作品に出てくる女性たちは、家庭や仕事や恋人など多くを手にしているようでいて、じつはそれらを支えるために皆ぎりぎりのところで生きている。でも、そんな中にも幸福な瞬間はある。息苦しさと美しさを堪能できる小説です。

『しろがねの葉』は、戦国末期の石見銀山が舞台の作品です。主人公の少女ウメは、身体能力も高く暗闇の中でも目が利きます。自分も銀掘の穴の中に入りたいと訴えますが、入れるのは男だけ。子どもを産んで育てるのが女の役目と言われてしまうんです。最近のジェンダー観からは逆の現実を突きつけられます。闇の中の真っ暗な描写や山の感じ、土の匂い、自然のディテールの書き方が千早茜さんは本当にうまい。まるで時空を超えて自分自身も闇の中にいるような感覚が体の中に宿ります。生きるというのはどういうことかを考えさせる小説です。

 時間を超えるという意味では『私の恋人』もお薦めです。運命の恋人に巡り合う瞬間を待ち続けている主人公の男性は、前世では最初はクロマニョン人で、その後は収容所にいたユダヤ人でした。3度目の転生は現代の日本人です。そこでようやく出会った女性を「私の恋人」だと確信します。ところが、その女性は別の運命の男性と出会っていた(笑)。物語は距離も時間も超えて縦横無尽に行き来するのに、そういうリアリティーが皮肉の利いた感じで最高に面白い。この小説の登場人物たちと世界の果てまで旅したような気持ちになるんです。

 日常という限られた空間なのに、まるで違う物語の世界に迷い込んだような……。そういうことを意識して書いたのが自作の『星のように離れて雨のように散った』です。コロナ禍で身動きできない時期だからこそ書けるものがあるんじゃないかと思ったんです。コロナ禍の中で宮沢賢治を論文のテーマにしている大学院生が主人公という設定でしたが、宮沢賢治の小説って想像力だけで宇宙へも行くし動物も植物も風までもしゃべります。主人公は、ほんの二つ三つ離れた駅にあるアルバイト先の邸宅でも、突然の大雨でも、まるで違う物語の世界に紛れ込んだような瞬間を見いだします。限られた日常の中でも宇宙まで行けるっていうことを、小説で書けたらと思いました。

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