引退表明後の記者会見で、泉は、残り半年の任期をまっとうし、その後は、政策アドバイザーとして他の自治体の「首長をつくりたい」「明石の政策を全国に広げたい」と語った。

 政治家の資質と業績は分かち難い。泉には毀誉褒貶(きよほうへん)がつきまとうだろう。

 ただ、子育て支援の「五つの無料化(医療費・第2子以降の保育料・0歳児のオムツ・中学給食・公共施設入場料)」をはじめ、ひとり親家庭の養育費の立て替えや、高齢者、障害者への行政的配慮、性的マイノリティーへの支援など「明石発」の取り組みは枚挙にいとまがない。その「やさしさ」を求めて子育て世代が明石に流入し、9年連続人口増、市税収入も8年続けて増えている。

■障害のある4歳下の弟 しあわせは本人が決める

 泉は市の土木予算を大胆に削り、職員の抜擢(ばってき)人事を行った。周りは敵だらけだが、財務状況も好転した。自治体の貯金に相当する基金残高は70億円(2010年)から112億円(2020年)にアップしている。次の市長が政策を継ぐ財源的裏付けはできている。焦点は泉の「信念」に心の底から共鳴するかどうかだ。

明石駅前再開発ビル「パピオスあかし」の「親子交流スペース・ハレハレ」で子どもと遊ぶ。この複合ビルには市民図書館に子育て支援センター、飲食店舗、クリニックなど市民ニーズをとらえた施設が集まる(撮影/MIKIKO)
明石駅前再開発ビル「パピオスあかし」の「親子交流スペース・ハレハレ」で子どもと遊ぶ。この複合ビルには市民図書館に子育て支援センター、飲食店舗、クリニックなど市民ニーズをとらえた施設が集まる(撮影/MIKIKO)

 泉は、じつに小学生時代から「やさしい社会を明石から」という信念を抱いてきた。その実現に向けて、青年期には革命家に憧れ、社会に出てからは政治とのかかわりを模索する。さらに弁護士としての猛烈な被害者支援を経て信念を市政に落とし込んだ。生身の人間とがっぷり組んだ経験が、市庁の針のむしろに座りながら市民目線の施策を、ときには強権を使って断行した原動力であった。

 その信念の源流をたどってみたい。

 泉の生地、明石市二見町。瀬戸内海に面した漁師町のそこここにお地蔵さんが立っている。かつて飢饉(ききん)で間引かれた赤子の供養のために建立された。泉の実家の隣にもお地蔵さんがあった。漁業を営む父と母と一緒に、幼いころから「弟が立って歩けますように」と拝むのが日課だった。

 当時、優生学上の見地から不良な子孫の出生を防ぐ「旧優生保護法」による非道がまかり通っていた。母が障害のある四つ下の弟を病院で産むと、医師は冷酷に告げる。

「このままにしましょう」

 ……見殺しである。両親は最後にひと目と保育器の赤ん坊を見て愛おしさのあまり「ごめんな。ごめんな」と崩れ落ちた。「障害があってもええ」と自宅に連れて帰る。隣近所から白眼視された。そこから家族4人の「世間との闘い」が始まった。

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