みやま・じゅんいち/1982年生まれ。中央大学教授。専門は日本近代史。宮内庁宮内公文書館研究職を経て現職。著書に『国葬の成立』(photo 本人提供)
みやま・じゅんいち/1982年生まれ。中央大学教授。専門は日本近代史。宮内庁宮内公文書館研究職を経て現職。著書に『国葬の成立』(photo 本人提供)

 安倍晋三元首相の「国葬」が、9月27日に開催される。そもそも国葬はどの役割を担ってきたのか、そして今回の国葬の何が問題なのか、宮間純一・中央大学教授と歴史から考える。AERA 2022年9月26日号の記事を紹介する。

【貴重写真】1943年に行われた山本五十六の国葬の様子

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 日本における国葬の原型は、「維新の三傑」の一人、大久保利通の葬儀にさかのぼる。1878(明治11)年5月、大久保は不平士族らに暗殺された。当時国葬の制度はなかったが、死から3日後、大久保の葬儀は盛大に執り行われた。

「当時、明治政府は盤石ではありませんでした。そこで、大久保の後継者として内務卿に就いた伊藤博文たちは、天皇の名の下に国家を挙げ哀悼することで、政府に逆らうことは天皇の意思に背くことだということを明確にしようとしたのです」

 歴史学者で国葬の歴史を研究する、中央大学の宮間純一教授は、こう述べる。

■初の国葬は岩倉具視

 国葬は世界各国で行われている儀式だ。宮間教授は、日本では一般的に「国が主催して国費で行われる国家儀式」と解釈されるという。

 大久保の葬儀から5年後の1883(明治16)年、右大臣を務めた岩倉具視の葬儀が日本初の国葬となった。官報によって天皇が執務をしない3日間の「廃朝」が発表され、死刑執行が停止された。東京では盛大な葬列が組まれた。

 その後も明治・大正期を通じて国葬は実施され、1926(大正15)年、「国葬令」が公布された。

「天皇や国家に特別な功績があったとされる、『功臣』に天皇から国葬を賜ることが明文化されます。国葬は叙位・叙勲などと同じ栄典の一種で、その中でも最高位の一つに位置します。国民は喪に服すことを求められ、天皇や国家に尽くした功臣を国全体で悼むことで、国葬は天皇のもとに国民を統合する文化装置として機能しました」

 戦時中、国葬は戦意高揚・戦争動員の目的で利用される。43年、太平洋戦争で戦死した連合艦隊司令長官の山本五十六が国葬の対象となった。

「山本五十六の国葬は象徴的です。山本は知名度が高い軍人でしたが、先例に照らして国葬の対象となるかは疑問です。山本の国葬が行われた年は、戦局が悪化し、国民の生活も苦しくなっていました。政府は、国葬を通じて国民に戦争協力を促し、不満を抑えつけ、戦争に総動員することを目的として山本の死を利用します」

1943年6月5日に行われた、太平洋戦争で戦死した連合艦隊司令長官、山本五十六の国葬。国葬は、国民に戦争協力を促していく役割を持った
1943年6月5日に行われた、太平洋戦争で戦死した連合艦隊司令長官、山本五十六の国葬。国葬は、国民に戦争協力を促していく役割を持った

 当時の首相は東条英機。東条は国葬に際し、山本の精神を継承して「米英撃沈」に邁進し天皇の心を安んじなければならないなどと国民に訴えた。国葬は権力とは異なる思想を排除する装置として機能し、国民は戦争への協力を強いられたという。

「このように、国葬は被葬者のためではなく、主催する側が政治的意図をもって利用してきた歴史があります。ナショナリズムを高揚させる機能を持ち、国家による思想統制や戦時動員などにも利用されました」

 戦後、国葬令は新憲法が施行されるのにともなって47年に失効する。だが67年、閣議決定で吉田茂元首相が国葬となった。その背景について、宮間教授はこう見る。

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野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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