尾張屋橋上の尾張屋橋停留所に到着する9系統浦舟町行きの市電。画面右側が横浜方面で左側が保土ヶ谷方面になる。画面手前に広がる橋上軌道の敷石形態は都電大曲停留所付近の敷石形態と類似していた。(撮影/諸河久:1968年6月23日)
尾張屋橋上の尾張屋橋停留所に到着する9系統浦舟町行きの市電。画面右側が横浜方面で左側が保土ヶ谷方面になる。画面手前に広がる橋上軌道の敷石形態は都電大曲停留所付近の敷石形態と類似していた。(撮影/諸河久:1968年6月23日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回に引き続き、本年3月に廃止50年を迎えた横浜市交通局(以下横浜市電)の思い出を綴る。横浜市電の橋上停留所は国鉄(現JR)東海道本線と同貨物線(現横須賀線)と相模鉄道本線、両線の北西側を流れる帷子川(かたびらがわ)の上を乗り越える長いスパンの平沼橋(平沼線/平沼橋)と尾張屋橋(浅間町線/尾張屋橋)に存在した。前回は平沼橋を紹介したが、今回は平沼橋から約1000m南西方向に所在した尾張屋橋のエピソードを紹介しよう。

【本文に出てくる写真など、貴重なカットの続きはこちら(計5枚)】

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 尾張屋橋の橋上に市電浅間町線(洪福寺~尾張屋橋~浜松町/700m)が敷設され、1930年10月の開業時には尾張屋橋停留所が橋上に設置されている。ちなみに、平沼橋停留所の開設は4カ月前の1930年6月だった。

「尾張屋」の名称は江戸中期の宝暦年間(1751~1764)に尾張屋九平治が橋の東側一帯を新田開発したことに由来し、1928年まで地名が存続していた。現在は尾張屋橋だけにその名が残されている。

 冒頭の写真は、洪福寺前から続く約400mの勾配を上り、尾張屋橋停留所に到着する9系統浦舟町(うらふねちょう)行きの市電。9系統は六角橋から洪福寺前~浜松町~初音町~浦舟町を結ぶ8225mの路線だった。橋上の尾張屋橋停留所を発車すると、次の浜松町停留所までSカーブを描く約300mの下り勾配が待っていた。尾張屋橋は横浜市内と八王子を結ぶ国道16号線(藤棚・浦舟通り)が走る交通の要衝で、朝夕のラッシュ時になると市電はクルマの洪水に翻弄された。尾張屋橋を渡る市電の姿が消えたのは、撮影日から2カ月後の1968年8月31日のことだった。

 画面手前に広がる軌道敷石の形態に注目されたい。レールと長手方向に敷石を配置し、軌道間には横方向に細い敷石が詰められている。この敷石の形態に見覚えはないだろうか? 2月26日掲載の都電大曲編で紹介した白鳥橋と「歴史的発見」のお茶の水橋の軌道敷にそっくりなのだ。隣県の横浜にも同形態の敷石が敷設されていたことを半世紀ぶりに発見した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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