北方行き路面電車が発着する魚町付近は狭隘な電車道で、通行する買い物客や自動車で混沌としていた。写真の332A+332Bは当初ビューゲルを装備していた。(撮影/諸河久)
北方行き路面電車が発着する魚町付近は狭隘な電車道で、通行する買い物客や自動車で混沌としていた。写真の332A+332Bは当初ビューゲルを装備していた。(撮影/諸河久)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回は西日本鉄道(以下西鉄)の北九州線・戸畑線・枝光線の路面電車を紹介した。その続編として、今回は、小倉の繁華街である魚町を起点にして近郊の北方との4600メートルを結ぶ西鉄北方線(きたがたせん)を紹介しよう。

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 人通りの多い商店街に春の日差しが影をつくる。歩行者と車列でにぎわう通りの真ん中を、堂々と路面電車が走る。たった1枚の写真だけで、当時の人たちの活気がひしひしと伝わってくる。

 冒頭の写真は、北方から小倉の魚町に到着した北方線の路面電車だ。折り返し運転に備えて、方向幕は「北方」行きに変更されている。魚町近辺の電車道は幅員が狭いため歩道もなく、買い物客や自動車でごった返しており、電車の撮影は難渋した。

 画面左側に「小倉銘菓 小菊饅頭 藤屋」の店舗が写っている。1954年創業の老舗で現在も盛業中だ。残念ながら、この魚町店は閉店したが、「小菊饅頭」は井筒屋小倉本店やJR小倉駅小倉銘品蔵などで店売している。

北九州のN電

 北方線は北九州線が標準軌間の1435mmで敷設されているのに比べ、狭軌の1067mmで敷設されており、ファンは京都のN電になぞって「北九州のN電」と呼んでいた。

 写真の331型連接車は1957年から1964年までに13組26両が製造され、北方線の輸送力増強と車両近代化に寄与した。北九州線の連接車と同様、A車にパンタグラフと制御器が、B車に発電機とコンプレッサを搭載。全長14m、定員94名(座席定員44名)で往時の単車2両分の収容能力があった。

 西鉄北方線は1906年に香春口~城野を開通させた小倉軌道がその前身だった。小倉軌道は軌間914mmの馬車鉄道で、同線を譲り受けた小倉電気軌道が1920年に1067mmに改軌、電車線電圧600Vで電化して、路面電車が走り始めた。北方線が香春口から魚町に延伸されたのは1927年で、1942年2月に九州電気軌道に合併後、同年9月に西鉄北方線になった。

近代化前に活躍した木造単車群

 北方線は1942年の九州電気軌道→西鉄合併時には17両の四輪単車で運行される単車天国路線だった。戦後になって321型ボギー車が増備されたが、単車群は矍鑠として活躍していた。前述の331型連接車の投入で1960年代初頭から淘汰が始まり、1964年に姿を消した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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路面電車が馬に引かれる光景?