昆虫図鑑好きの小学生
将来の夢は生物学者

 私が伊藤の『記憶する体』を知ったのは、脳卒中(小脳出血)を患い、幸い1週間ほどの入院で退院できたものの、かるい右半身麻痺や発語のたどたどしさ(運動障害性構音障害)といった後遺症をねじ伏せようと四苦八苦している日常を送っている最中だった。もとの体に戻そうと焦っていた。しかし『記憶する体』を読んだ私は、本に登場する人々がままならない体と固有の向き合い方をさぐり続けていることを知り、少し心が緩んだ。

 同書は──全盲でありながらメモをとる女性、点字を読みながら数字や文字の色を思い浮かべる男性、事故で失った左足を義足にして踊るプロダンサーの男性の感性、全盲の女性が感じる「目が見える人が書いた文章」に対する違和感、骨肉腫で右腕をすべて切断した女性が、義手をつけることによって幻肢の記憶が失われるかもしれないと考える独自性、バイク事故で左腕の神経が損傷したことによる幻肢痛と関わってきた男性の執念など──個々の障害との「付き合い方」を聞き取り、わかりやすく綴(つづ)っていく。

 やわらかく、体温を感じさせる伊藤の文体はスッと頭に入ってきた。どこか文学的表現を用いながら、かつ客観的で細かな、相手の所作への観察眼と描写は心地よくさえあった。相手の発する言葉を独自の比喩と解釈で読む者に届ける。

 ライターの武田砂鉄(39)は、伊藤の『記憶する体』がとりわけ好きで、ほとんどの著書を読んでおり影響を受けたという。

「人間の体というのはローカルルールを持っていて、それが他の人から見たら不合理な内容だったとしても、その人にとっては合理的で、私たちが、今日は体調いい感じ、とか、ちょっとダルいんだよね、という曖昧な感じを持つときも、実はとても大切で複雑なもので、そこに着目すると世の中の見え方も変わってくるな、と伊藤さんの一連の著作を読んで思ったんです」

 伊藤は1979年、東京都八王子市に生まれた。広告会社勤務の父も、在宅の仕事をしていた母も美術好きで、美術全集の類いも書棚に揃(そろ)っていた。野山を駆け回り、わざと知らない獣道のようなところを行き、見覚えがある場所に出ると心がざわめいた。読書好きの子どもではなく、昆虫図鑑の類いばかりを読み、将来は生物学者になろうと思っていた。

 吃音が原因で小学校の頃、同級生から軽くいじめられたり、真似(まね)されたりすることはあった。しかし陰湿なものではなく、イヤな気持ちになることはあっても、吃音がスティグマになるような否定感を持つことはなかった。

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