小倉城下の春を謳歌するように、紫川の流れは春麗だった。西鉄北九州線の路面電車は満員の乗客を乗せて勝山橋を渡っていった。魚町~室町(撮影/諸河久)
小倉城下の春を謳歌するように、紫川の流れは春麗だった。西鉄北九州線の路面電車は満員の乗客を乗せて勝山橋を渡っていった。魚町~室町(撮影/諸河久)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は路面電車春の旅の続編として西日本鉄道北九州線の訪問記を綴ろう。

【50年以上前の北九州の路面電車など、貴重な写真の続きはこちら(計6枚)】

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 1960年代、北九州、福岡、長崎、本などの九州主要都市で活躍する路面電車は垂涎の存在だった。当時高校生だった筆者にとって九州は遠境の地で、現在の欧米に匹敵する遠距離感があった。

 大学3年に進級した1968年の春休み、念願の九州行きのチャンスが巡ってきた。関門トンネルを潜って国鉄門司駅に到着し、九州への第一歩を踏み出す。門司駅前には営業距離44.3キロメートルのネットワークを誇る西日本鉄道(以下西鉄)北九州線の路面電車が発車を待っていた。

■紫川界隈の栄枯盛衰

 冒頭の写真は、小倉市街を流れる紫川畔から「石の橋」と呼ばれている勝山橋を渡る西鉄北九州線の路面電車を撮影した一コマ。細川忠興が築城し、1959年に再建された小倉城天守閣が遠望できる。画面手前の紫川は小倉を南北に貫く二級河川。往時の紫川は風光豊かな清流で、下流はアユが遡上し、上流はホタルの里として親しまれた。高度成長期の公害の影響で、訪問時にはかなり汚染されていたのが残念だった。画面左端には、小倉城に隣接する勝山公園も見えている。

 西鉄北九州線はその前身の九州電気軌道によって1911年に開業している。後年延伸した戸畑線、枝光線を加えて、門司、小倉、八幡、戸畑の各地区を結ぶ都市間連絡電車と市内電車を兼ねた存在だった。全線で4400mを占める専用軌道区間では、自動閉塞信号による運転保安がはかられ、路面電車にかかわらず60km/hの高速設計になっているのは特筆に値する。軌間は1435mm、電車線電圧は600Vで、続編で紹介する北方線(魚町~北方/4600m)は1067mmで敷設されていた。

小倉城の天守閣を横目に見て、筑豊中間に向う北九州線の600型。1950年から50両が量産され、北九州線近代化の旗手となった。魚町~室町(撮影/諸河久)
小倉城の天守閣を横目に見て、筑豊中間に向う北九州線の600型。1950年から50両が量産され、北九州線近代化の旗手となった。魚町~室町(撮影/諸河久)

 次のカットが勝山橋上を走る筑豊電鉄に乗入れの筑豊中間行き路面電車。北九州線が敷設された全長88mの勝山橋は「紫川10橋」の中心をなす橋梁で、それまでの木橋からコンクリート橋として1931年に改築されている。橋上の国道199号線拡幅工事にともなって、2000年に架け替えられた。ちなみに、勝山橋の橋上には勝山橋停留所が1946年頃まで所在した記録がある。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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