「あれは、お父ちゃんが作ったんやで」

 東大阪で生まれ育った玉川は子どものころ、万博記念公園で太陽の塔を見ながら父にそう言われ「カッコええ」と感心した。父は社員30~40人の配管会社の社長で、塔の配管を請け負ったというのが正確なところだが、自分の仕事を誇らしげに語る父の背中を見て育った玉川は「いつか自分も何かを作る仕事がしたい」と思うようになった。

 玉川は時計を分解したり、兄のパソコンを使ってテニスゲームを作ったりする子どもだった。中学までは地元の公立に通い、高校は進学校の東大寺学園。東京大学工学部に進んだ時は「宮大工になって橋を作りたい」と思っていたが、ちょうど初期のウェブブラウザー「モザイク」や汎用(はんよう)プログラミング言語「Java」が登場したこともあって、コンピューターに興味が移る。大学院ではVR(バーチャルリアリティー)の研究に没頭した。

 玉川は「就職するなら基礎研究所のあるところ」と決めていた。コンピューターの基礎研究所を持つ会社は、NTT、日本IBM、日立製作所など国内に数社しかない。玉川は2000年、日本IBMに就職した。

アイデアが浮かんだら壁のホワイトボードに書き付ける。議論が白熱することも(写真=写真部・松永卓也)
アイデアが浮かんだら壁のホワイトボードに書き付ける。議論が白熱することも(写真=写真部・松永卓也)

■IBMでイロハを学ぶ

 当時の日本IBMにはIT業界のスターがゴロゴロいた。コンピューターの主流がメインフレーム(大型汎用機)からパソコンが主体のクライアントサーバーに移って苦境に陥ったIBMは、復活をかけ、1992年にノート型パソコンの「ThinkPad」を発売する。

 これを手がけたのが、後に開発・製造担当副社長になる丸山力ら、日本IBM大和事業所の研究者だった。IBMはソニーや東芝と組んで次世代マイクロプロセッサー「Cell(セル)」の開発にも取り組んでおり、広い事業所は熱気であふれていた。

 ところがソフトウェア事業に経営資源を集中する方針を固めたIBMは、パソコン事業を中国のレノボに売却してしまう。大和事業所はしばらく日本IBMとレノボの研究者が一つ屋根の下で働く奇妙な時期を経て、2012年に閉鎖される。

 玉川は東京本社に呼ばれ、常務取締役ソフトウェア事業部長だった堀田一芙(かずふ)の下に配属された。堀田は長年、パソコンの営業を担当。それまでNECの「PC98シリーズ」など独自仕様が主流だった日本市場に米インテルのCPU(中央演算処理装置)と米マイクロソフトのOS(基本ソフト)を使った「IBM互換機」と呼ばれる世界標準を根付かせた立役者である。玉川は補佐として堀田に帯同し、ビジネスのイロハを学んだ。

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