AERAで連載中の「この人この本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。

椎名美智(しいな・みち)/1956年、宮崎県生まれ。法政大学文学部英文学科教授。専門は言語学、特に歴史語用論、コミュニケーション論、文体論。単著に『「させていただく」の語用論』、共編著に『歴史語用論の世界』『歴史語用論入門』など(撮影/東川哲也)
椎名美智(しいな・みち)/1956年、宮崎県生まれ。法政大学文学部英文学科教授。専門は言語学、特に歴史語用論、コミュニケーション論、文体論。単著に『「させていただく」の語用論』、共編著に『歴史語用論の世界』『歴史語用論入門』など(撮影/東川哲也)

『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ』』は、椎名美智さんの著書。近年、話題になる「させていただく」は正しい敬語なのだろうか。多くの人が持つ違和感を言語学から考えていくと、日本社会・人間関係の変化が見えてくる。約150年前に生まれた「させていただく」というフレーズを、マンガ、芸能人や政治家のコメント、ポスターなど身近な例からあきらかにしていく。精密な検証と意外な例証が、言語学の楽しさも教えてくれる。椎名さんに、同書にかける思いを聞いた。

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 今や触れない日はない「させていただく」という表現。『「させていただく」の使い方』で登場するのは、SMAPをはじめ芸能人の挨拶文から駅のポスターまで、世の中に溢れているフレーズの数々だ。

「“させていただく”は1871年の三遊亭圓朝の落語『菊模様皿山奇談(きくもようさらやまきだん)』に用例があります。使用増加はそれから120年後の1990年代ですが、現在、使用が爆発的に増えています。多くの人が日常生活で使っているし、『本日の司会をさせていただきます』など、自分でも無意識に使っていると思います」

 そう語る椎名美智さん(66)の専門は言語学の歴史語用論だ。

「歴史語用論では言葉の歴史を調べる“歴史言語学”とコミュニケーションでどのように言語が使われているのかを調べる“語用論”という二つの視点から、コミュニケーションの歴史的変化を研究します。戦後、日本では人間関係のポイントが次第にタテからヨコへと変化しました。そうなると相手との関係性を各自の判断で決める必要が出てきます。その結果、失礼にならないよう敬語を過剰に使う傾向が加速し、皮肉なことに、敬意のインフレーションが生じたのです」

 伝統的な敬語は尊敬語や謙譲語など上下関係を表すものが正統派だが、世の中がヨコでの関係になってくると「やりもらい(授受)」の動詞で恩恵を表すことが好まれるようになる。「くださる」「いただく」などが、旧来とは別のタイプの敬語的な表現として使われ、今や「させていただく」という、敬意がてんこ盛りのフレーズが使われるようになったのだ。

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