和歌浦に宿泊した翌日は快晴・無風の天候に恵まれ、水鏡によるシンメトリックな作品を残すことができた。1971年の路線廃止後、321号が和歌山城南側の岡公園で保存され、往年の姿が見られる。 新和歌浦~権現前(撮影/諸河久)
和歌浦に宿泊した翌日は快晴・無風の天候に恵まれ、水鏡によるシンメトリックな作品を残すことができた。1971年の路線廃止後、321号が和歌山城南側の岡公園で保存され、往年の姿が見られる。 新和歌浦~権現前(撮影/諸河久)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は季節柄「路面電車 春の旅」と題して、南海電気鉄道和歌山軌道線などの訪問記を2回にわたって綴ろう。

【和歌山を走った路面電車、当時の貴重な写真の続きはこちら】

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 徳川八代将軍吉宗を輩出した紀州・和歌山城下には、南海電気鉄道和歌山軌道線(以下和歌山軌道線)の路面電車がネットワークを築いていた。和歌山市内に路面電車が開業したのは1909年で、和歌山水力電気によって運営されていた。その後、京阪電気鉄道→合同電気→東邦電力→和歌山電気軌道と目まぐるしく変遷し、1961年に南海電気鉄道の傘下に入り、同社和歌山軌道線になった。和歌山軌道線は、市駅(和歌山市駅の略称)~海南駅前を結ぶ海南線を主軸に新和歌浦支線(和歌浦口~新和歌浦)と新町支線(公園前~東和歌山)を加えた16100mの路線を擁していた。軌間は関西圏では珍しい1067mmで、電車線電圧は600Vだった。

 筆者が和歌山軌道線を訪ねたのは1965年春のことだった。大陸育ちの大きな移動性高気圧に覆われたのか、淡路島~和歌山~紀伊田辺の順で巡った旅は終始晴天に恵まれた。淡路島から和歌山市駅に着いたのは前日の夕刻だった。新和歌浦行きの路面電車に乗り、終点にある景勝地「和歌浦」の宿舎に着くころには暗夜になって、潮騒の音で海辺の宿に泊まることを認識した。

春陽に路面電車が輝く

 翌朝も好天に恵まれ、万葉の昔から歌に詠まれた名勝和歌浦の早朝散策を楽しんだ。春休みと連休が重なったので、和歌浦は観光客で賑わっていた。海外旅行などは考えも及ばない時代で、佳き昭和時代の光景だった。

 冒頭の写真は和歌浦に隣接する御手洗池畔を走る市駅行きの電車。御手洗池から流れ出る川面が水鏡になり、電車のフォルムがシンメトリーに輝いた瞬間を捉えた一コマだ。写真の321型は1963年の新造で、おでこに大きな二つのヘッドライトを設置した異色の面構えだった。この二つ目ライトの印象が、当時のテレビコマーシャルのキャラクターだったカエルの「ケロヨン」を彷彿とさせるため「ケロヨン電車」の愛称で、1960年に製造された2000型連接車と共に和歌山名物になっていた。

 ちなみに、321型は和歌山電気軌道から南海電鉄が引継いだ後に新造されたため、南海大阪軌道線(現・阪堺電気軌道)の新車と同じクリームとライトグリーンの塗色で登場している。それまでの在来車はホワイトとスカイブルーの塗色で、訪問時は二色が共存していた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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