手前は、広島の小学校の同級生らとの写真。その下は、米国で編入させられた小学校の同級生で、黒人が多かったという(撮影/津山恵子)
手前は、広島の小学校の同級生らとの写真。その下は、米国で編入させられた小学校の同級生で、黒人が多かったという(撮影/津山恵子)

 真珠湾攻撃後の1942年2月19日、米国大統領が署名した大統領令は、約12万人もの日系人を「敵国人」として強制収容所に送った。同令から今年で80年を迎える。AERA2022年2月28日号の記事を紹介する。

【写真】強制収容所で食料をもらうため、列に並ぶ古本さんの母と姉ら

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「強制収容が、北朝鮮でもなく、愛するこのアメリカで起きたということを、多くの人に知ってもらいたい」

 と米ニュージャージー州在住の古本武司さん(77)。潤んだ目で、手元にはベトナム戦争帰還兵のキャップがある。

 1944年、カリフォルニア州トゥルレーク日系人強制収容所で生まれた。両親と姉4人の末っ子で、父親を除いては全員が米国生まれだった。父は戦前、同州で野菜を扱う商売で成功していた。しかし、42年2月19日の大統領令「9066」で、財産は没収、1人スーツケース1個というほぼ丸裸状態で収容所に運ばれた。

被爆直後の広島に送還

 しかも収容中、母親の国籍が剥奪され、一家は日本に強制送還される。たどり着いたのは、父の家族がいる広島。原爆投下直後である。小学校同級生の多くが、広島原爆による火傷(やけど)を負っていた。

 戦後、一家が苦労してカリフォルニア州に戻ると、ゼロからスタートする貧困に加え、住みたい場所にも住めない2度目の日本人差別に遭った。古本さんは、差別生活を抜け出すために士官学校に進み、ベトナム戦争に志願して従軍した。ところが、戦場で米軍が撒いた「枯れ葉剤」で負傷し、帰還後は、「誰にも会いたくない、何もしたくない」という心的外傷後ストレス障害(PTSD)も患う。

 心を閉ざして家族から離れ、ニュージャージー州に移った。そこで日系3世の妻キャロリンさんの「看護」で立ち直り、古本不動産を創業。80年代の日本のバブル経済で多くの物件を扱い成功した。

「少し悲しい話になるので、休憩させてください」と、2時間超に及んだインタビューを中断し、古本さんは唇を結び、涙をこらえた。

 それは、広島にいた終戦後、ニューヨークにいた叔母から送られてきた、しゃれたカウボーイハット、ブーツ、おもちゃの銃が付いたベルトの思い出だ。米国帰りで友だちができなかった古本さんは、近所で一躍「キング(王様)」扱いになる。しかし2日後、再び近所の子らに見せようとすると、3点セットは消えていた。

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