靖国神社の石鳥居を背景に番町線から九段線に右折合流する10系統須田町行きの都電。ビューゲルの左横の架線にトロリーコンタクターが写っている。九段坂上 (撮影/諸河久:1963年7月6日)
靖国神社の石鳥居を背景に番町線から九段線に右折合流する10系統須田町行きの都電。ビューゲルの左横の架線にトロリーコンタクターが写っている。九段坂上 (撮影/諸河久:1963年7月6日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は1964年の東京オリンピック工事に関連した都電迂回運転で、真っ先に廃止された番町線を巡る都電の話題を紹介しよう。

【当時の番町線の写真など、50年以上前の貴重な写真はこちら】

*  *  *

 都電が地下鉄へと移行した昭和の高度経済成長期。地下に潜ったことで移動時間の短縮などに大きな利点をもたらしたが、一方で心寂しくなったこともある。車窓から東京の景観が失われたことだ。

 人いきれの都心部ながら、そこかしこにある桜の名所。車窓から春を感じられる路線はいくつもあり、東京の美しさを堪能することができた。

 靖国神社で著名な九段上と半蔵門を結ぶ番町線もその一つ。山手と下町を繋ぐ10系統(渋谷駅前~須田町)が通う東京市街鉄道以来の伝統路線で、番町線が敷設された青葉通り(内堀通り)の沿道は桜並木が続き、桜花爛漫の頃には都電の車窓から花見と洒落(しゃれ)込んだことだろう。

 風光明媚な番町沿線で花見が楽しめたのは1963年の春までだった。東京オリンピック工事の一環だった千鳥ヶ淵畔の首都高速道路環状線の建設が進捗し、1963年9月30日限りで番町線はいの一番に廃止されてしまったからだ。同時に青山線(三宅坂~渋谷駅前)のうち三宅坂~赤坂見附~青山一丁目間も線路が撤去され、10系統は青山一丁目から四谷三丁目、四谷見附、市ケ谷見附に迂回し,九段上に達することになった。

九段上停留所を発車して九段富士見坂に向けて力走する10系統渋谷駅前行きの都電。オリンピック工事による迂回運転で番町線が廃止されたため、この光景も9月30日で見納めとなった。 九段坂上~三番町 (撮影/諸河久:1963年7月6日)
九段上停留所を発車して九段富士見坂に向けて力走する10系統渋谷駅前行きの都電。オリンピック工事による迂回運転で番町線が廃止されたため、この光景も9月30日で見納めとなった。 九段坂上~三番町 (撮影/諸河久:1963年7月6日)

雑踏の九段上交差点で九段線に合流する番町線

 冒頭の写真は、番町線九段上停留所で発車待ちする10系統須田町行きの都電。背景は1933年に建立された靖国神社の石鳥居で、交差点で合流する九段線(小川町~九段上)が敷設された靖国通りは自動車の雑踏だった。

 画面中央の交通信号機には路面電車専用の黄色矢印信号が点灯している。集電装置のビューゲル弓部の上部が架線上のトロリーコンタクターに接触すると、電車が交差点を右左折する信号が制御器に送信され、自動的に分岐器を転轍し、矢印信号を現示する装置だ。このシステムの採用により、信号機の左隣に屋根だけ写っている信号塔内の信号士は不要となり、無人化による合理化が図れた。なお、1960年の記録では76箇所の信号塔のうち、33箇所が自動化されている。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ