「母の思いで就いた薬剤師ですが、良い仕事です。病で苦しむ人へ説明するだけでなく、人の健康を祈る医療人として、理系の頭でないところでも理解したい」(柄澤)(写真=家老芳美)
「母の思いで就いた薬剤師ですが、良い仕事です。病で苦しむ人へ説明するだけでなく、人の健康を祈る医療人として、理系の頭でないところでも理解したい」(柄澤)(写真=家老芳美)

ママ友に背中を押され
クオールで働き始める

 林業と漁業が盛んな三重県尾鷲市三木里町に生まれた。町一軒の薬局の次女で、店は母が切り盛りし、父は保険局に勤める薬剤師だった。戦前生まれの母がなぜ薬剤師を目指したのかを聞いたことはないが、大学受験を前に「医学部か、歯学部か、薬学部に行きなさい。それ以外には学費は出さない」と母に強く言われた。理系だったが薬剤師になりたかったわけではなく、結果的に名城大学薬学部に進学したのは、当時、薬学部だけが4年制だったという消極的な理由からだ。

 親にとって、「手に職を」は娘への切実な思いだったろう。とはいえ、柄澤が学生時代を過ごしたのは日本が最も豊かだった80年代で、同級生も柄澤と同じように医師や薬局経営など裕福な家の娘が多く、おっとりとした雰囲気だった。そもそも医師を中心とした医療体制で薬剤師は補佐的イメージで、結婚したら女性は仕事を辞めるという意識が根強い時代でもあった。卒業後は薬剤師の8割が病院就職していたように、柄澤も病床30ほどの三重県内の総合病院に勤める。

 当時は医師の処方に疑問や提案をすると、「薬剤師が医師に質問していいと大学で習ったのか?」と威圧する医師もいた。「ねえちゃん」と患者に呼ばれるのもよくあることだった。そういうとき、柄澤は「習ってないけど、聞きたかったんです~」と、嫌みなくひょうひょうと返せた。薬卸会社の男性がミスをした部下に土下座を強いた時はカッとなり、土下座させている先輩の男性薬剤師にも「なぜ、こんなことをさせるのか?」と激しく怒り、周りを驚かせることもあった。

「父が優しかったから、男の人が怖くないんです」

 争いごとを嫌う陽気さと、突如正義感が噴き出す真っすぐさ、真摯(しんし)に人と向き合う姿勢で人を引きつける魅力が柄澤にはある。

 4年働いた病院は結婚を機に退職し、製薬会社に勤める夫の転勤に伴い上京する。29歳で女の子、その4年後に男の子を出産した。

 転機は32歳、上の子が通う幼稚園のママ友たちとの時間に訪れた。柄澤が薬剤師だというと、「もったいない」とママ友たちが口々に言い、子どもを預かるから働きに出なさいと勧めたのだ。

「ママ友っていうと、良く言われないこともあるけれど、みんな助け合ってやってきました」

 と振り返るママ友の一人、呉里美(63)自身が、子育てのために仕事を中断していた。企業に理解のない時代、仕事を諦める同世代の女性は多かったと、もう一人のママ友、小川陽子(64)は言う。

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