哲学者 内田樹
哲学者 内田樹

 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 講演会では時に思いがけない質問を受けることがある。先日は「ポストモダンのその後はどんな世界になるのでしょう?」と訊(き)かれた。意表を衝(つ)かれて、とっさに「近代以前に退行すると思います」と答えてしまった。口にしてみたら妙に腑(ふ)に落ちた。質問者はじめ聴衆のいくたりかも大きく頷(うなず)いていた。なるほど。内心では時代が「近代以前に戻りつつある」と感じている人がずいぶんいるのだと知った。

 ポストモダンは「大きな物語」が無効を宣告される時代だと教えられた。すべての人々はそれぞれの人種、国籍、性別、信教、階級、政治イデオロギーなどなどの「虜囚」である。だから、すべての人の世界観には主観的なバイアスがかかっており、「私の見ている世界は客観的な現実だ」と主張する権利は誰にもない。そういう考え方が支配的になった。そうかも知れないと思った。それがおのれの世界認識や価値判断の客観性を過大評価しないという「節度」を意味するなら、それはけっこういいことではないかと思った。

 でも、蓋(ふた)を開けてみたら、ポストモダンの社会は節度とは無縁だった。万人が共有しうる客観的現実がないなら、各自が自分にとって都合のよい主観的妄想のうちに安らいでいればよい。「オレの見ている世界はオレにとってリアルだ。以上、終わり」で話が済むようになった。

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内田樹

内田樹

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

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