父親が割烹(かっぽう)、母親が洋食の料理人という中で育った小林にとって料理はそもそもごく身近なものだった。幼い頃から父の働く厨房にもしばしば顔を出していたし、食事は出来合いではなく母の手料理が中心だった。10歳の頃には、兄とともに台所に立って見よう見まねで料理をつくったりもしていたのだ。

 ほどなく少年は、「東急リゾートタウン蓼科」内にある会員制「東急ハーヴェストクラブ蓼科」のフランス料理店に働き口を見つける。この時代、長野県ではもっとも高い評価を受けている店の一つだった。

 父親の運転するクルマに乗り、長野県諏訪市の自宅から蓼科へと向かう道中、小林は、父からこう言われた。

「シェフの言うことは絶対だ。そこでは『はい』しかないから。『いいえ』はない」──。

 門出の日に父から言われたこの言葉は、金科玉条となって、少年の心に深く刻まれた。

 コンクールでも入賞歴のあるシェフの中村徳宏のもと、少年は徹底的に鍛え上げられていく。

「学んだのは、人として生きること。人との接し方、料理人の姿勢。フランス料理よりも人間性を学びました。たぶんもう、一生分をあそこで怒られている。職業を変えろと何回も言われましたし」

(文・一志治夫)

※記事の続きはAERA 2021年7月26日号でご覧いただけます。