■どこか不思議な敗戦
王位戦第1局は29、30の両日、名古屋市でおこなわれた。藤井は瀬戸市、豊島は一宮市出身。両者にとってホームというべき対局場だ。
そして終わってみれば──。
「あの藤井聡太がこんな負け方をするのか?」
そう思わせるような藤井の完敗だった。藤井も人の子。ごくまれに不出来なときもあるだろう。まして相手が豊島ならば、不思議でもなんでもないはず。それでも藤井の敗戦は、どこか不思議な感はあった。
振り駒により、若干有利な先手番を得たのは藤井だった。トップクラス同士の対戦では、その差は大きくなるとも言われる。しかし、藤井は先手番で8カ月ぶりの黒星を喫した。
藤井は「相掛かり」を採用した。互いに相手陣に向かってまず飛車先から攻めかかる戦法だ。先手の利を生かしやすいとして近年改めて注目され、トップクラスの対局でも多く現れている。無論、藤井の得意戦法でもある。しかし、1日目の段階でわずかにリードを奪ったのは後手番の豊島のほうだった。
■魔法がかかっている
藤井や豊島がどれだけ優れた技量の持ち主なのか、盤上を見ただけで理解できる人間はほとんどいない。もちろんたまには、将棋に多少の心得がある人なら誰もが驚くようなスーパープレーも飛び出す。とはいえ指し手のほとんどは地味で難解だ。誰もが気づかないところで差がつく。それが近年、アマチュアの観戦者にもわかるのは、コンピューター将棋ソフト(AI)が形勢差をほぼ正確に数字で明示できるようになったからだ。
ネットテレビ局「ABEMA」で解説を担当していた深浦康市九段(49)は対局中、藤井について次のように述べていた。
「なんていうんですかね。豊島竜王に足をつかまれているような。前進したいんだけど、知らない足かせをされて前進できないような。なんか魔法がかかっているような感じですよね。なんかぎこちないというか」
藤井がこういう負かされ方をした例は、ほとんどない。
終局はまだ日の高い午後3時35分。持ち時間の長い2日制8時間の対局とはいえ、藤井は1時間41分も残して負けた。長考派の藤井は勝つにせよ負けるにせよ(ほとんどは勝ちだが)時間を多く残すことはあまりない。
「ちょっと本局、早い時間の終局になってしまったので、第2局以降、熱戦にできるようにがんばりたいと思います」
藤井は局後、そう反省した。
やっぱり豊島はラスボスだ。序盤、中盤、終盤、スキがない。改めてそう感じさせられたような一局だった。(ライター・松本博文)
※AERA 2021年7月12日号より抜粋