谷尻の原点は生家にある。1974年、広島県の三次(みよし)に生まれた。内陸部の緑に囲まれた盆地。自然豊かな土地で育った。暮らしたのは、細長い形をした古い日本家屋。井戸から生活用水をくみ、トイレはくみ取り式。五右衛門風呂には薪がいり、湯を温めるには外に人を必要とした。大人になったら大工になってお城を建てる、が口癖だった。

 中学に入ると夢中になったのが、バスケットボール。高校では県の選抜に選ばれるほどになるが、同時に貴重な人生訓を手にした。

「厳しいけれど、素晴らしい監督に出会えたんです。覚えているのが、お前は機械になれ。僕は背が低かったので、ロングシュートを確実に決めるためには、とにかく何も考えずに練習しろ、と」

 毎日居残りをして、スリーポイントラインからひたすらシュートを打つ練習をした。それこそ機械のように。すると、考えなくても目をつぶっていてもシュートが入った。ところが、いざ試合になると敵に邪魔されて入らない。そこで今度はラインから1メートル下がった場所でシュートを打つ練習を始めた。すると、どんどん決まった。

「ゴールに近いほどシュートが入りやすいのがバスケです。しかし、あえて遠くに離れるという不利なコンディションを自ら選べば、圧倒的優位性を手に入れることができた。常識を疑え、というその後の自分の軸のひとつになりました」

 勉強は苦手だった。バスケットボールで大学に進む道もあったが、自分の家をなんとかしたいという思いもあって、デザインの専門学校に進むことにした。広島市で一人暮らしを始め、卒業後は設計事務所に就職。建売住宅が中心の会社。給料もそこそこ、休みもあり、早く帰れて不自由はなかった。ただ、街に出てお洒落なレストランやクラブに出入りし、ファッションにも興味のあった谷尻は、次第に物足りなさを感じるようになる。

「センスのいい空間を作りたい、という欲求がじわじわ湧いてきてしまって」

 そんな折、有名ファッション企業がインテリアデザインの事業を立ち上げると耳にする。応募にあたり、谷尻は設計事務所を辞めてしまう。

「逃げ道を用意しているみたいで嫌だったんです。退路を断てば自分もここに入るために全力を尽くすし、熱意も伝わる。人生を賭けて受けに来たほうが採用確率は高いと思いました」

(文・上阪徹)

※記事の続きは2021年6月14日号でご覧いただけます。