最上のおもてなしを売りにするお茶屋には「営業時間」なるものはない。間違ってもコロナ感染を発生させてはならず、その一方で夜8時に退店を促すような無粋はあり得ないとすれば、選択肢は「休業」しかないということだろう。
舞妓は先輩の芸妓を「おねえさん」と呼び、女将を「おかあさん」と呼ぶ。だが、その「おかあさん」に「先生」と呼ばれる人物が上七軒にいる。
戦後花街の生き字引で、多くの舞妓たちの名付け親にもなってきた、いのむらすいさん(93)である。
「休業しても、きちんと舞妓を育て、芸妓の面倒を見ているお茶屋は少ないです。中里の舞妓はいつなんどきお客さんから『ごはんたべしよか』とお声がかかっても、しっかりおともできるよう、何枚もの着物と帯を揃(そろ)えてます。女将の意地や」
花代(収入)を自力で稼ぐ芸妓と違い、舞妓は衣食住をお茶屋に依存しながら、無給に近い形で修練に励むのが一般的なシステムである。
だが、コロナ禍で収入の途絶えたお茶屋が、舞妓を抱え育成するのは相当な経済的負担がかかる。そのため、一時的に舞妓を実家に帰したお茶屋も少なくないが、いったん実家に戻った舞妓は将来を不安視する親の意向もあり、そのまま舞妓になることを断念するケースも多いという。仕事が激減し、芸妓を辞める女性も増えているという。古くからの関係者は人材の先細りに最も強い懸念を示している。
■乗り越えた74年の苦境
京都五花街のなかでも、最古の歴史を誇る上七軒。
菅原道真をまつった「北野天満宮」が1444(文安元)年に焼失した際、残りの材木で七軒の茶店が造られた。その茶店のお茶汲(く)みさんが、日本の芸妓の起源とされる。
芸どころとしての伝統と格式を重んじる上七軒の最大行事は1952年から続く「北野をどり」(毎年3月下旬~4月上旬に開催)だが、コロナ禍で昨年に続き2年連続の中止となった。
また、いわゆる「一見さん」でも舞妓、芸妓との触れ合いを楽しめることで大人気を博していた夏のビアガーデンも昨年は中止となり、今年も中止の可能性が高まっている。上七軒の大きな収入源は、軒並み断たれている格好だ。
前出の女将、中村さんは半世紀前の苦境を回想する。
「74年、上七軒の芸妓が一時的に少なくなったとき、どうしても北野をどりを開催することができず、中止となったことがございました。しかし、あのときもここに生きる者たちが一丸となって何とか立て直すことができました。コロナで、伝統ある上七軒の明かりを消すわけにはまいりません」
最古の花街に生きる女性たちの不屈には、数百年の歴史を背負ったすごみが宿る。新型コロナとの闘いはもうしばらく続きそうだ。(ライター・欠端大林)
※AERA 2021年5月31日号