■幼い頃から名店で食事 中学で「美食倶楽部」結成

 野村は精進料理の中で育った。実家は、1950年に祖母が東京都港区愛宕で開いた精進料理店「醍醐」。物心ついた頃にはすでに政財界の要人が訪れるような格式高い店になっていた。母親は接客に追われ、父親や板前たちが板場でせわしく働き、満席の折には、普段使う野村家の茶の間に常連客である現役の大臣が座っている、という日常。1階が店舗で2階が自宅という環境は、少年をいや応なく料理の世界へと引き込んでいった。

「小学生の頃から、祖母とは、2カ月に1回ぐらい2人だけで京都に行ったりしてました。商売繁盛の伏見稲荷にお参りして、その足で吉兆で食べて1泊してと、いま思えば、一種の英才教育だったのかもしれません」
「醍醐」の定休日だった木曜日には、決まって一家で麻布飯倉の「野田岩」、麻布十番の「まつ勘」、神田の「ぼたん」といった都内の名店へと繰り出した。
 そんな舌の肥えた少年の頭痛のタネは、学校給食だった。

「家で出されるのはお店の賄いだったし、日常的に贅沢をしているわけではなかったけれど、美味しいものは食べていたと思います。そのせいか給食の味つけが苦手で、肉なんかは特に無理だった。でも、当時は残すことが許されず、器が空になるまで居残りさせられた。だから、僕はある日からひざ掛けのようなものを持って行って、そこに食べたふりをして全部吐き出して持ち帰ってました」

 成城学園中学校に進んだ野村は、すぐに同好の士を見つける。のちにホフディランとしてデビューする小宮山雄飛(47)だ。小宮山の父親は食通で、やはり幼い頃から外食に親しんでいた。2人は、数人の仲間とともに

「美食倶楽部」と称して、放課後の食べ歩きを始める。

 小宮山が振り返る。

「あの頃、『美味しんぼ』というマンガが流行(はや)っていて、みんなで読んでいた。その影響もあって、中学生だけでラーメン屋や蕎麦(そば)屋に行って、『あそこは蕎麦よりうどんのほうが旨い』とか言いながら、街のB級グルメみたいな店を探索してました。食べ歩くだけでなく、マンガに出てくる料理を実際に自分たちでつくったりもして」

 小宮山は当時の野村の印象をこう言う。

「家と料理屋が一体という生活スタイルの中で育った雰囲気が言動からにじみ出ていた。典型的なお坊ちゃんでおっとりしてて、焼き肉は叙々苑、イタリアンはキャンティというように行く店も決まってたし、とにかく食に慣れていた」

 高校、大学と成城で過ごした野村は、おのずと料理人の道へと導かれていく。

「周りが就職活動を始めたときも僕はせずに、まあ、家を継ぐんだろう、ぐらいの気持ちだった。ただ、大学時代にバイト感覚で厨房を手伝ってはいたものの、どうしても料理人になりたい、精進料理をつくりたいという強い思いもなかった」

(文・一志治夫)

※記事の続きは2021年5月17日号でご覧いただけます。