翌日、子どもたちの主治医となった「ター先生」が病室に来て、現状の説明をしてくれました。

「おふたりとも安定して過ごされています。まだ人工呼吸器を使っていますが、お姉ちゃんは数日で外れそうなくらい元気です。この状態なら恐らくもう命の危険はありません。妹さんは少し苦しい状態が続いて心配しましたが、今は落ち着いています」

■命の危険は10%、麻痺が残る確率は20%

 出産直後には夫がター先生から説明を受けており、その時点では命の危険が10%、身体に麻痺が残る確率が20%と言われていました。

 夫が「すいぶん高い確率ですね」と言うと、先生は穏やかに「5人に4人は元気に育ちますよ」と答え、夫は「でもうちは双子ですが」と言って笑ったと聞きました。もちろん、我が家の子どもたちは4人に入ることを前提に。

 ター先生の表情から前日の不安は消え、私は早く赤ちゃんたちに会いたくなりました。

 母親が初めて早産児に会う時は、そのメンタルを考えて、なるべく家族が来られる時間に合わせて調整するそうです。

■「ごめんね」しか言えなかった

 多忙な夫はこの日は夕方しか時間が空かず、私は朝からそわそわしながら来院を待っていました。おなかの傷は痛みましたが、車椅子に乗れなければNICUに行くこともできず、懸命に歩く練習をしながら「(赤ちゃんに会えない)この状態の方がよっぽどメンタルに悪いよ」と思っていました。

 でも、実際に小さな我が子たちを見ると、言われていた意味がよくわかりました。二人とも人工呼吸器等のたくさんの管につながれ、掌に乗りそうな大きさしかなく、次女のスネは私の人差し指と同じ太さでした。

 身体を拭くだけで疲れてしまうので、上半身と下半身を1日置きに清拭すること、自力でミルクが飲めるまで2カ月以上かかること、それまでは鼻から入れたチューブを使い、1日1ccからミルクを流し始めること……。どの説明を聞いても「ごめんね」しか言えず、そのたびに涙が止まらなくなりました。

■NICUの優しさと支え

「苦しそうに見えるかもしれませんが、この子たちはこの状態が一番快適なんですよ」という、ター先生の言葉だけが救いでした。

 NICUはとても優しい空間で、ドクターや看護師さんたちが他愛ない世間話も交えながら、常に家族の不安に寄り添い、包み込んでくれるようなところでした。

 激務の中、子どもたちの似顔絵を描いてくれたり、温かいコメントを毎日カードにして渡してくれたり。

 当時は自分のことで精一杯で、周りを見る余裕はありませんでしたが、何があっても逃げ出さずに面会に通えたのは、スタッフの方々の大きな支えがあったからだと思います。

 子どもに病気が見つかった時、出会うドクターによって、その後の家族のQOLは大きく変わります。NICUからずっと我が家に寄り添い続けて下さる先生方に、感謝の気持ちでいっぱいです。

〇江利川ちひろ/1975年生まれ。NPO法人かるがもCPキッズ(脳性まひの子どもとパパママの会)代表理事、ソーシャルワーカー。双子の姉妹と年子の弟の母。長女は重症心身障害児、長男は軽度肢体不自由児。2011年、長男を米国ハワイ州のプリスクールへ入園させたことがきっかけでインクルーシブ教育と家族支援の重要性を知り、大学でソーシャルワーク(社会福祉学)を学ぶ

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江利川ちひろ

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江利川ちひろ(えりかわ・ちひろ)/1975年生まれ。NPO法人かるがもCPキッズ(脳性まひの子どもとパパママの会)代表理事、ソーシャルワーカー。双子の姉妹と年子の弟の母。長女は重症心身障害児、長男は軽度肢体不自由児。2011年、長男を米国ハワイ州のプリスクールへ入園させたことがきっかけでインクルーシブ教育と家族支援の重要性を知り、大学でソーシャルワーク(社会福祉学)を学ぶ。

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