車谷は愛媛県新居浜市に生まれ、東大経済学部卒業後の1980年、東芝のメインバンクである三井銀行に入った。社長、会長を務めた三井グループの首領・小山五郎の秘書を務め、ボスに可愛がられて出世街道に乗った。

 護送船団の時代、エリートのポストは大蔵省を担当する「MOF担」だった。いかに多くの官僚の知己を得られるかが、実力を測る尺度。車谷は官僚たちと仲良くなるのがうまかった。

■「西川さんは疑った」

 だがバブル崩壊で業界は一変した。98年秋、三井銀行の流れをくむさくら銀行が3500億円の増資を募った。応じたのがトヨタ自動車や東京電力、東芝など三井グループ各社。増資に関わった車谷は東電や東芝に恩義を感じたという。

 しかし、さくらを蝕む不良債権はそんな額では足りなかった。2001年には住友銀行との合併に追い込まれた。

 車谷は合併交渉の事務局という大役を果たし、合併後は経営企画部副部長に就いた。だが、「ラストバンカー」こと旧住友出身の西川善文頭取に遠ざけられ、03年、王子法人営業部長に左遷させられた。

 大きな挫折を味わうが、転機はまもなくやってきた。

 当時、金融庁は三井住友銀行に注目していた。ターゲットは旧住友が抱える不良債権。「半沢直樹」に登場する黒崎検査官のモデルとされる目黒謙一は「それなりの規模の不良債権の残骸がある」と疑っていた。当時の金融庁幹部は「三井住友の融資第三部が抱え込む案件が、なぜ回収できないのかがわからない。検査しなければならないテーマだった」と話していた。

 金融庁の特別検査が始まったタイミングで、極秘の内部資料が外部に漏れた。それにより、融資第三部は1兆円もの不良債権を抱えていたことが明るみに出た。とうの昔に処理が済んだと思われていた安宅産業やイトマン由来の不良債権だった。

 あと1年、頭取職にとどまりたかった西川の野望はこの瞬間に消えた。「西川さんは車谷がリークしていたと疑っていた」。西川派の重鎮はかつてこう語っていた。

■高圧的なやり口が裏目

 新体制のもと、車谷は営業第三部長として本店に復帰する。07年には執行役員経営企画部長という中枢ポストに起用された。奥正之・新頭取は車谷を重用する半面、西川派の筆頭格を日本郵政に出した。旧さくら、旧住友のエースの二人は、ともに合併交渉の事務局を務めた間柄だったが、銀行員としての人生はこのとき明暗を分けた。

 挫折を乗り越えて、順風満帆かと思った矢先。いまに通じるともいえる強引なやり方が、ハレーションを招く。

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