だからこそ、メッセージの送り手は、誤解しないような言葉を選ぶ。ダブルミーニングなど、とんでもない。

 かつての名曲は、情景や行為の描写に感情を語らせた。聴き手が曲の余白を自由に解釈できる。歌詞は聴き手の自分事として落とし込まれ、深い共感を生んだ。しかし、解像度の粗いメディアが意思疎通の主力となった時代、背景も理由もない一次感情、たとえば「うっせぇ」と連呼する歌が現代の名曲になるのは、むしろ必然ではなかったか。

 そして、わたし(古いほう、男性)は、けっこうこの曲を楽しめたのだった。デスメタルとアニソンをデジタルで融合したような楽曲も、ボカロを思わせる歌唱も、反抗というより、コミカルに思える。「私が俗に言う天才です」と断言する根拠のない無敵感は、まじめにとるより、かわいらしく感じた。

 無根拠で無力で無反省。この曲は、そんな自分を、いちばん罵倒しているんじゃなかろうか。「アタシも大概だ」「言葉の銃口をその頭に突きつけて撃て」とも歌っているし。

「うっせぇ」と叫ぶ自分たちが、いちばんうっせぇ。世界/他者への罵倒も、自分が覚めているなら、余白がある。

 笑える。(朝日新聞記者・松田果穂、近藤康太郎)

AERA 2021年3月22日号