■障害児育児の日常を知ってほしい

 私が夫(ゆうくん)と結婚したのは、2004年、ゆうくんの36歳の誕生日でした。そして、双子の妊娠がわかったのは、翌年の私の30歳の誕生日。子どもたちの誕生を心待ちにしながら明るい未来を何度も想像していた、私の人生で一番幸せな時期だったように思います。

 その後、早産で生まれた3人の子どものうち2人に障害が残ってしまい、障害児育児に浸る数年間を過ごしていたのですが、2015年、それまでの経験とハワイでの生活を元に小児科医と臨床心理士の友人に協力を依頼し、脳性まひの子どもと保護者を支援する団体「かるがもCPキッズ」を立ち上げました。

 現在ではありがたいことに、複数の大学の学科や学会などで、我が家の生活やかるがもCPキッズの活動をお話しさせていただく機会が増えました。そこで毎回感じたのは、「実際の障害児育児の話を初めて聴いた」と言う学生さんがとても多かったことです。これは医療分野でも教育分野でも福祉分野の学科でも同じでした。これから先生を目指す学生さんたちにもぜひ、我が家の日常を知って頂ければと思っています。

■ママがいつも笑顔でいたら

 我が家のこれまでの一番のターニングポイントは、2011年、まだ上手に歩けなかった息子の幼稚園の就園先が見つからず、受け入れを快諾してくれたプリスクールへ入れるためにハワイへ行ったことです。夫は仕事のために日本に残り、私と子どもたちだけで生活する覚悟で渡米しました。ハワイは、私が頭の中で理想としていた世界が日常だったのです。

 そして、そこで出会った小児科クリニックのドクターやソーシャルワーカーのSさんから、こんなことを言われました。

「環境が整うならコウはハワイに住むべきだと思う。この子はここで育ったら、学校だけでなく、野球だってサッカーだって水泳だって、自分の好きなことを思った通りにできる。アメリカ人というのは何かしようとしている人を止めないんだよ」

「あなたは絶対に頑張ってはいけない。そのためにソーシャルワーカーがいるのよ? ママがいつも笑顔でいたら、子どもたちは優しく育つことができる。そしてパパは少しでも早くここで一緒に住めるように考えてね」

 私が頑張らなければ入園も進学もできないと思っていたのは何だったのだろう。母親が常に笑顔なら優しい子に育つ。そんな当然のことまで何年間も頭から抜けていたことに気付きました。同時に、どうしてこんなに小さなプリスクールでできることが、日本の教育現場ではできないのか?という疑問が大きくなっていきました。

次のページ
なぜ日本では母親たちの孤立が変わらないのか