2019年3月11日、子どもたちを思ってつくった地蔵の前で手を合わせる遠藤伸一さん。毎年この日には、当時の避難所仲間や元ボランティアらが集まる(撮影/編集部・川口穣)
2019年3月11日、子どもたちを思ってつくった地蔵の前で手を合わせる遠藤伸一さん。毎年この日には、当時の避難所仲間や元ボランティアらが集まる(撮影/編集部・川口穣)
AERA 2021年3月8日号より
AERA 2021年3月8日号より

 東日本大震災から10年、「誰にも同じ思いをしてほしくない」との思いから、伝承活動を続けている被災者がいる。そんな思いを実践につなげる試みもはじまった。AERA 2021年3月8日号から。

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 宮城県石巻市。海跡湖(かいせきこ)・万石浦(まんごくうら)につながる水道沿いの市街地の一角に、木製の遊具と寄り添うように立つ3体の子地蔵がある。木工作家・遠藤伸一さん(52)の自宅跡地だ。地蔵は遠藤さんの子どもたち。遠藤さんは振り絞るように言う。3人を殺したのは、今でも自分だと思っている──。

 あの日。強い揺れのあと、遠藤さんは自宅横の別宅に住む母に子どもたちを預け、連絡がつかない親戚宅へ向かった。そこを津波が襲った。自身も津波に巻き込まれ、翌日、自宅のあった場所に戻ると、冷たくなった8歳の奏(かな)ちゃんを抱き取り乱す母の姿があった。同じ日、13歳の花さんもがれきの下から見つかった。10歳の侃太(かんた)くんが見つかったのは10日ほど後のことだ。

地震のあと家に戻っていた花に会って、侃太と奏を学校に迎えに行ったんです。子どもらを自宅に戻していなければ、助かったはず」

 生きていて地獄、死んでしまいたかった。震災からの日々を遠藤さんはそう振り返る。同じ避難所の仲間や全国からのボランティアに支えられ、何とか生きてきたという。

 あの日から10年。大切な縁を失った人にとって、10年は区切りではない。一方で、遠藤さんの心境には変化もあった。これまでは早く子どもたちの元へ行きたいとどこかで願っていた。

「でも最近は、まだ死ねないと思うんです。震災後に始めたボランティア活動も中途半端だし、みんなに恩返しもできてない。思いをつないでくれる人もいる。生きる意味をなくしたおんちゃんが人に支えられて生きてきた。わが子を抱きしめることはできないけれど、3人が生きた証しを残すことはできる。ずっと後悔してますが、10年前ほど自分が嫌いじゃなくなりました」

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野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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