ただ、われわれは、田舎でテレビを見て育ち、都会に出て、その共通体験を持った他人と交われるようになった最初の世代。鴻上も、東京では昔のアニメ『冒険ガボテン島』の話で盛り上がり、芝居に結実させていったんじゃなかったかな」

 家庭環境も大きい。鴻上の両親は、組合活動に熱心な学校教員だった。

 50年代の愛媛教職員組合の実力は、日教組の“御三家”と呼ばれるほどだった。彼らが全国で最も激しい「勤評闘争」を戦っていたただ中で、鴻上は生を受けている。

 公選制から任命制に変更された教育委員会制度での勤務評定は、教職員の団結を阻み、教育の国家統制に直結してしまう。鴻上の両親たちが恐れた悪夢は、はたして今日の現実そのものだ。

「生まれて間もない頃に、両親はそろって四国山脈の山奥に飛ばされました。その間の数年間は祖父母に育てられたんです。教師の子あるあるですが、父は特に戦後第1期生の教員で、戦後民主主義の輝かしい未来を、よく語っていましたね」

 鴻上は肌身でも理不尽を知った。これも中学の演劇部で、進学組と就職組の対立を描いた戯曲を選んだら、顧問と担任と学年主任に取り囲まれた。
「どんな影響があるかわからないって、結局、ねじ伏せられたんです。あれが実は僕の演劇の原点だったり、します」

 県立新居浜西高の演劇部では「全国高等学校演劇大会」(文化庁など主催)の愛媛県大会に出場。何がすごいかというと、愛媛では某私立高校しか参加できなかった“慣例”を鴻上が破ったのだ。

 安保闘争の時代の、高校の文化部同士の交流を禁じた文部省通達が、愛媛では成仏できずにいた。勤評闘争の顛末の、これも一つの結果だったか。

「僕らのほうが明らかによかったんですが、中国・四国ブロック大会出場はダメだと。翌年にまた参加しようとしたら、県教委から待ったがかかる。校長が問い合わせてくれたんですが、『校長会が』。で、校長会に聞くと、『教育委員会が』って」

──戦ってますねえ。

「いやあ、その頃から、僕の教育に対する沸点の高まりが」

 この話には後日談がある。後に件(くだん)の演劇大会は、やはり文化庁主催の「全国高等学校総合文化祭」の一部となり、18年後の94年、開催地の立場が愛媛に回ってきた。県教委は演劇部門にも参加せざるを得ない。ついでに鴻上を審査員に招いたのが運のツキ。

「閉会後の懇親会で、僕があの話をしたんです。で、『当時の教育委員会か校長会の方、いらっしゃいましたら、前に出てきてください。あの、私、殴りたいと思います』って」

 会場は凍り付いたという。

(文・斎藤貴男)

※記事の続きはAERA 2021年2月22日号でご覧いただけます。