なのに他の大方のようには体制に阿(おもね)らず、逆にこの国の社会のおそらくは致命的な病根を抉(えぐ)らずにいられないのは、なぜか。彼の言う「長期戦」とは、何物との闘いを指しているのだろうか。

「僕の田舎では、朝の6時と夕方の6時に、公民館が大音響の音楽を流すんですよ。すると父親が、夜働いている人もいるのに、個人というものを考えておらんと怒る。その通りだよな、と子ども心にも思ったものだけど、未だに何も変わらない」

 田舎とは愛媛県の新居浜市だ。別子銅山を中心に、元禄年間以来の住友財閥の企業城下町。現在も非鉄金属の精錬をはじめ、化学、重機械などの大工場が集積する人口十数万人、瀬戸内有数の工都で、1958年に生まれた鴻上は、小学生になるかならぬかの頃、すでに演劇に目覚めていた。よく母親に連れて行ってもらった芝居に憧れたという。

「人間のフタを開けるというか、本質をあぶり出すような感じが面白くて。初めて戯曲を書いたのは中3の時。演劇部で、昭和20年代に書かれた『ラクラク館は揺れる』っていう旅館のシチュエーションコメディーみたいな台本から、基本的な設定をいただき、“続編”を作ったんです。名物料理の川魚からPCBが発見され、原因は上流の工場の廃液だと。それでラクラク館の主人である『僕』の息子と、ライバル旅館の娘の恋物語でもあるという。工場の名前は『スミフレンド』です」

 時は高度経済成長の真っただ中。背骨の曲がった魚が釣れる新居浜の公害を、中学3年の鴻上はコメディーに取り込んだ。「スミフレンド」というのも、モロに「住友」より大胆不敵であるような。

 鴻上と同郷の演劇プロデューサー・細川展裕(のぶひろ)(62)に会った。保育園から中学校までの同級生に、当時の新居浜の記憶を尋ねる。

「あの頃のイメージは、“住友に支配されてる町”です。東の川之江市(現・四国中央市)は大王製紙、西隣の西条市がアサヒビールで、あのへん一帯に企業城下町の空気が充満していた。世間体が何よりも大切なんです。

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