石原家は週1度、必ず家族で外食するのが決まりだった。割烹や寿司、フレンチの店でテーブルマナーを教わったこともある。さらに母・伸子は兄弟に週6日、乗馬にスケート、水泳に習字にサッカーなどあらゆる習い事をさせた。子どもたちにはしっかりとした教育を受けさせたい。そんな両親の思いを石原は感じていた。

 中学でラグビーを始め、才能を開花させる。ラグビー雑誌の表紙を飾るほどのスター選手になり、ドラマ「スクール・ウォーズ」に登場する大阪の名門高校に進学。1年生でレギュラーとなり日本代表確実だと言われた。だが、2年生のとき足を粉砕骨折する大ケガをした。「この挫折がいままでの人生で一番つらい経験だった」と石原は言う。

 出口の見えない暗闇のなかで必死に光を探し、筋トレとリハビリを続けて1年後に復帰する。しかし恐怖心が拭えず、リザーブ止まり。思い描いていたラグビーでの大学進学も危ぶまれたが、中学時代の活躍を知る帝京大学の監督が声をかけてくれた。3年生で念願のレギュラーになり、「ようやく親や友人に活躍する姿が見せられる」と喜んだのもつかの間、4年生のときに監督がそれまでのコーチを全員やめさせる刷新を行った。仲の悪い4年生を見かねてのことだった。「全員がコーチになる覚悟が出来たら来い」と言われ、しぶしぶ全員で行くと、監督が言った。「石原、お前がやれ」。大学初の学生コーチに選ばれたのだ。その瞬間、涙がとまらなかった。嬉しかったわけではない。
「オレ、もうこれで終わりなのかな?」

 コーチと選手を兼任するのは無理だ。悩んだ末、父・栄一に相談した。「自分がどうなるか、ではなくチームを日本一にするためにベストを尽くしなさい」と言われて心を決めた。
 ラグビーはケガが多く、選手の層の厚さが勝負を決める。そう考えた石原は1年生の体作りを優先し、夏を過ぎて試合の出場がなくなった4年生に掃除や洗濯をさせるなど、大きな改革を行った。当然ながら反発はあった。練習に来なくなった4年生を、ひとりひとりパチンコ店から連れ戻し、チームに戻るよう説得した。
「僕はチームのために選手生命を絶った。その僕が言うからみんな聞かざるを得ないんです」
 チームに戻って本気を出す4年生のプレーを見て、1年生も鼓舞される。歯車が回り出し、そのチーム力がその後の帝京大9連覇へとつながった。

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