口溶けにこだわったのは、ある研究者から「日本人は欧米人に比べて唾液の量が少ない」と聞いたことが理由だ。誰もが食べやすく、これまでにないフレッシュなチョコレートを作る。それが石原が自身に課したミッションだった。

 だが石原にチョコレートの師匠はいない。もともとチョコレート好きだったわけでもない。どちらかと言えば苦手で、食べると頭が痛くなった。

 ラグビー大学選手権における帝京大学の9連覇の快進撃の素地を作った元ラガーマンにして、リクルートで営業成績の社内ギネス記録を作ったサラリーマン。それが13年に中南米・コロンビアへの旅行でカカオに目覚め、独学でゼロからチョコレート作りをはじめた。

 15年、神奈川県鎌倉市の小町通りに最初の店をオープンし、翌年にパリのチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」に出店、フランス人にも大好評を得る。3年目でANA国際線のファーストクラスで採用され、その後ニュウマン横浜やグランスタ東京など話題のスポットに出店、わずか5年で国内に7店舗を構える人気ショップへと躍進した。19年には「即位の礼」で各国元首への手土産にも採用されている。
 いったい、どんな道のりをたどったのだろう?

 石原は1984年、大阪市生野区で生まれた。映画「パッチギ!」の舞台に似た街で、近くの町工場から漂う鉄や油の匂いをいまも憶えている。その街で父・栄一(67)と母・伸子(62)は串焼き屋を営んでいた。牛のタンやカルビ、ハラミなどを串に刺して焼く店は行列が絶えず、芸能人も訪れた。住居兼店舗での営業は夕方5時から翌3時まで。石原は弟の祥行(よしゆき)(35)と店の奥の休憩室で、客の笑い声と両親の背中を見ながら眠った。

「お客さんには可愛がられましたけど、治安はあまりよくなかったですね。店にやくざが来て、母が『この先に行くなら、私を刺してから行きなさい!』と追い返すのを見たこともある」(石原)

 小学校時代はケンカもしたが、常にどこか「悪いものには染まらない」という思いを持っていた。
 いまは「MAISON CACAO」取締役として兄を支える祥行は言う。
「兄は優しいから、痛いだろうと相手を殴るときにグーで殴らずパーになってしまう。僕のほうが『そんなことじゃダメだ。 やられる前に徹底的にやらないと!』なんて言うこともありました」

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