■目の前の道路予定地を見ながら暮らす日々

 結局、藤間さんはその年の12月に震災前の自宅へ戻り、高齢の母親と暮らし始めた。訴訟は取り下げられたが土地売買の問題は解決せず、行く末は定まらなかった。収入源は母親の年金だけ。細々とした暮らしが続いた。

 そして20年2月、「事件」が起こる。藤間さんが母親を虐待したとして、母親が市に保護されたのだ。本人は虐待を否定し、市は「保護の有無も含めて答えられない」としており、何があったのかはわからない。母親を「ババア」と呼ぶなど、藤間さんの言動はやや粗暴だが、母思いなのも間違いない。「軽自動車はつらい」という母親のため、無理をしてセダン車を維持していた。母を熱海へ連れて行きたい……。そんなエピソードは多数ある。藤間さんは、保護は母親名義の土地買収を進めるための市の策略と疑っており、母の真意を聞きたいと願う。だが、今も会うことは叶っていない。唯一の収入源だった年金からも切り離された。

 食うにも困り、支援団体からの食料提供で食いつないだ。トイレは汲み取りだが業者を呼べず、近所の店で用を足した。携帯電話も止まっていた。

 1月に入って、亡父名義だった建物部分の売却が決まり、藤間さんにある程度まとまったお金が入った。石巻市によると、土地買収についても母親と契約がまとまったという。ひと心地ついたと言えるが、実際に引っ越せるのはもう少し先になりそうだ。転居先探しは支援団体を頼り、目の前の道路予定地を見ながらひとりで暮らしている。そして、いまあるお金が尽きれば、おそらく生活保護を受けるしかない。しかし、藤間さんの胸には市や県に振り回され続けたとの思いが強い。

「生活保護を受けるとしても、石巻市役所とは話もしたくない。できるなら県外、無理でも石巻には住みたくない」

 直接的な被害が特別に大きかったわけではない。それでも、10年たっても腰を据えられない人がいる。

「10年の節目」。私たちはよく、そんな言葉を使う。しかし、被災に直面した人にとって、10年は必ずしも節目ではない。今ももがき続ける被災地に寄り添うためにできるのは、忘却を拒み、風化に抗うことだ。

(編集部・川口穣)

AERA 2021年2月15日号より抜粋

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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