ジェンナーはその後も実験を重ね、牛痘の膿を接種することで天然痘の感染を予防できるという研究成果を1798年の夏に出版した。反響は大きく、数年のうちにヨーロッパや北アメリカなどに広まった。これが世界初の「ワクチン(vaccine)」になった。この語は、牛痘を意味するラテン語の「ワリオラエ・ワッキーナエ(variolae vaccinae)」から来ている。

●子の腕から腕へのリレーによりワクチンが伝わった!

 ジェンナーによる牛痘種痘法の情報は、研究発表5年後の1803年にオランダを通じて長崎に届いていた。しかし、牛痘種痘が日本国内で行われるまでには、さらに45年以上の年月が必要だった。理由の一つは、当時の日本は江戸時代で、許可されていたオランダや中国も含め、外国との交易が幕府により厳しく制限されていたから。もう一つの理由は、ワクチンとなる牛痘の膿が日本に届く前に効力を失っていたからだ。当時のオランダ船は、植民地だったジャワ島のバタビア(現在のジャカルタ)から、ガラス容器に入れてワクチンを運んできた。風まかせの帆船の航海で冷蔵庫もないから、ワクチンは長い航海を生き延びることができなかったのだ。それでも、蘭方医(オランダから伝えられた学問で西洋医学を学んだ医者)たちのワクチンを求める声はしだいに強まっていった。そして、1849年8月11日(新暦)に届いた牛痘の膿とかさぶた(ここにもウイルスが含まれる)のうち、一つのかさぶたを使って接種した少年の腕に赤い発疹が現れた。牛痘ウイルスに感染したのだ。

 この感染を無駄にしてはならないと、たくさんの子どもが集められ、腕から腕へリレーしていく方法で、長崎から九州各地の子どもたちに牛痘種痘が行われていった。膿やかさぶたを運ぶと効力が失われる恐れがあるので、子どもの腕から腕へと伝えていく、より確かな方法がとられたのだ。牛痘種痘は、蘭方医たちのネットワークを通じて九州から全国へ広まっていき、長崎に到着した半年後には、日本の主な地域のほとんどに伝わっていたという。効果は明らかで、接種を受けなかった子は天然痘にかかるのに、接種を受けた子はかからないことが実際に確かめられた。その後、牛痘種痘は「種痘」と呼ばれ、改良されながら1976年まで子どもたちに接種され続けた。

 ジェンナーの発表から約180年を経た1980年、WHO(世界保健機関)は天然痘の世界根絶宣言を行った。天然痘は地球上から姿を消したのだ。

 新型コロナとの闘いは、今後どうなるのか? 100年後、200年後にはどのように語られるのだろう?

(サイエンスライター・上浪春海)

※月刊ジュニアエラ 2021年2月号より

ジュニアエラ 2021年 02 月号 [雑誌]

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