母の希望とは裏腹にDeNAへ就職決める

 初めて取材したのは最初の緊急事態宣言が解除となった20年5月末だった。都心に近い住宅街の一軒家で、20人近い若者がサービス開発と運用に前のめりになっている。おまけに秋元はこの家の一室に住み込んでいた。

 秋元は起業前、IT大手のDeNAで働いていた。母からは「農業は儲からないから、継がなくていい」「就職するなら、安定している公務員か銀行」と言われて育ったという。その秋元が、公務員でも銀行でもなくDeNAに就職し、今度は一転して起業したのが食べチョクだ。

 農業を含む第1次産業の就労者は全体のわずか4パーセント。農業人口はここ20年で389万人から168万人にまで減少している。就労者の平均年齢は67歳にもなる。新規事業のテーマにするには条件の厳しい分野だ。しかも、秋元の実家はすでに廃農していた。ところが。

「たとえ周り全員が敵になっても、母だけは味方でいてくれるという安心感があります」
 と秋元は言った。農業を継がせず、安定を望んだ母が、事業を応援しているというのである。

 相模原に秋元家を訪ねたのは半年後だった。
「以前はずっと向こうまでうちの土地でした」
 と里子が指さした方角には、道すがら見た秋元家の墓のあたりの家並みがあった。

 ベッドタウンとなった相模原だが、かつては農業が盛んな地域で、秋元家は何人もの小作人を抱える養蚕農家だった。戦後、農地改革により地主は土地を手放し、小作人が土地を所有することになる。地主の多くが専業では立ち行かなくなった。秋元家でも一人息子だった秋元の父・輝次は東京信用保証協会に勤め、5代目にして兼業農家となった。

(文・三宅玲子)

AERA 2021年2月8日号