2人がそうした「往復書簡」によって思いをつないでいたという事実は互いの著書などによって明らかにされていたが、存命の間はその内容が明かされることはなかった。

 だが99年に馬場が亡くなり、2018年に元子もこの世を去ったのちになって、遺族によってこの手紙が残っていることが明らかにされた。そのごくごく一部は18年末から19年初頭にかけて都内で行われた「ジャイアント馬場展」で展示され、ファンの目にも触れた。

 生前の2人は人前で互いを「ユー」「馬場さん」と呼び合うなど、夫婦であると同時にビジネスパートナーのイメージも強かった。だが手紙の中で馬場は元子を「モーちゃん」「カーチャン」などと呼び、元子は馬場を「ショーヘイ」「正平さん」、時には「トーチャン君」と呼んだ。そして互いに身の回りの出来事を報告し、会えない寂しさを訴え、ハワイに買った家で2人のんびり過ごす日々を夢に見た。

 2人は71年にハワイで知人夫婦のみ同席の結婚式を挙げたが、72年に元子が帰国するまで、2人の往復書簡は続いた。

■「2人の宝」公開の理由

 元子の姪で生前の夫妻の世話をし、現在は遺品などの管理をしている緒方理咲子(63)は、手紙についてこう話す。

「たくさんの手紙があるということは14歳でおじおばと出会った時から知っていましたが、とても開けられませんでした。おばの生前もひと束はいつもお仏壇の前に、残りは金庫に入っているという状態で。『死後に発表してほしい』ということもなく、本当に2人の宝物という感じでした。おばの死を覚悟した時には、2人の宝物であるこの手紙も棺に入れようと思いましたが、やがて『二人の原点を灰にしてはいけない』と思うようになり、公開を決めました」

 膨大な量の手紙の束は、かつて「週刊プロレス」で全日本プロレスを担当し、馬場夫妻からの信頼も厚かった市瀬英俊(57)に託され、その内容を中心に『誰も知らなかったジャイアント馬場』(朝日新聞出版)がまとめられることとなった。

「手紙をやりとりしていたという事実は元子さんの著書にも出ていたので知っていましたが、まさかこんなにたくさん、しっかりと保管されていたとは知らず、驚きました。おそらく、お預かりしただけでも1千通近くあったんじゃないですか。手紙を読んで、『筆まめだなあ』と思いました。元子さんにすれば回数が少ないということでしょうけど、あの馬場さんが日々にあったささいなことを含めて書いていたのが驚きで。元子さんもいろいろと報告していて、ああ、2人にも普通の恋人同士の期間もあったんだなと」

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