牛島司令官は首里の司令部壕で降伏せず、本島南部に撤退する作戦を選んだ。この結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は大幅に膨らんだ。極限状態に陥った兵士が壕から住民を追い出したり、殺害したりすることも起きた。沖縄戦で語り継がれる悲劇が南部撤退によって凝縮して発生したともいわれる。

 牛島さんは司令部壕の様子を確認したことがある。

 90~98年まで知事を務めた大田昌秀県政は、司令部壕公開に向け試掘調査に着手していた。牛島さんは97年8月、壕内の見学を申し出たところ県の担当者立ち会いのもと、入坑を許された。

 首里城の守礼門近くの入り口から梯子や階段を使って地下深く潜り、坑道に立ったとき、牛島さんは観光客でにぎわう地上の喧騒とは対照的な静寂に包まれた。壕の内部には、鉄かぶとやつるはし、軍靴などの遺品も整理して置かれていた。公開準備が整えば、沖縄戦や南部撤退の歴史的関心が深まる、と牛島さんは確信した。

 しかし、大田県政の退陣後に政策転換が図られ、一般公開に向けた調査や整備は凍結された。公開が見送られたと聞いた当時、「がく然とした」と振り返る牛島さんはこう嘆く。

「県の調査は全坑道約1千メートルの28%、300メートルしか進んでいない段階で凍結されました。その後は保守点検と崩落防止のための措置しかとられていません。この20年間、司令部壕の構造や機能の調査研究は進まないまま、戦時中の壕内部を知る戦争体験者もわずかしか残らない状況になってしまいました。この停滞は大きな痛手です」

 首里城の火災後、玉城デニー県政は県内世論に後押しされる形で、保存公開に向けた検討委設置のほか、司令部壕に関する文献や証言を収集し、21年度に史実調査に乗り出す方針も打ち出している。ただ、公開には巨額の事業費が必要になるため先行きは見通せない。牛島さんは言う。

「国内最大の地上戦が行われた司令部の戦跡調査は、首里城再建と同様に国が費用を負担すべきです。少なくとも南部撤退の際、司令部壕に取り残された傷病兵の遺骨収集と未調査部分の埋蔵文化財調査は国が行う責任があります」

次のページ