首里城は2019年2月に復元工事が終わったばかりだった。火災では正殿と北殿、南殿がほぼ全焼するなど主要7棟が焼けた (c)朝日新聞社
首里城は2019年2月に復元工事が終わったばかりだった。火災では正殿と北殿、南殿がほぼ全焼するなど主要7棟が焼けた (c)朝日新聞社
首里城地下に張り巡らされた旧日本軍の第32軍司令部壕。牛島満司令官の孫の貞満さんは1997年に県の案内で壕の様子を確認した(写真:牛島さん提供)
首里城地下に張り巡らされた旧日本軍の第32軍司令部壕。牛島満司令官の孫の貞満さんは1997年に県の案内で壕の様子を確認した(写真:牛島さん提供)

 2019年10月に焼失した首里城の再建計画では、地下に眠る旧日本軍の司令部壕も注目されている。多くの民間人が犠牲となった沖縄戦の経緯を知る上で重要な遺構を保存し、公開するべきだとの機運が高まる中、当時司令官だった牛島満中将の孫が、保像・公開の意義を語る。AERA 2021年1月11日号から。

【写真】首里城地下に張り巡らされた旧日本軍の第32軍司令部壕

■沖縄戦遺構に学ぶこと

 首里城火災を機に脚光を浴びているのが、首里城地下に張り巡らされた旧日本軍の第32軍司令部壕だ。沖縄戦を指揮した日本陸軍の拠点施設で、深さ約30メートル、総延長約1000メートルに及ぶ。5つの坑道で結ばれていたと記録される国内最大規模の戦跡だが、損傷が激しく詳細は分かっていない。

 2020年3月に保存・公開を求める市民グループが活動を開始。県内世論の盛り上がりを受け県は4月、首里城復興基本方針にITを用いた壕内部の公開検討を明記。さらに12月には、保存公開を前提に議論する検討委員会を年度内に立ち上げる方針を示した。

 司令部壕公開に向けた動きに熱い視線を注ぐのは、第32軍司令官だった牛島満中将の孫の牛島貞満さん(67)=東京都世田谷区=だ。

「首里城と司令部壕を一体的に捉え、歴史を考える場とすることには大きな意義があると思います」

 琉球王国の文化の象徴である首里城と、先の戦争で首里城が焼失した要因に連なる司令部壕。地上と地下に共存する「歴史遺産」を再建、保存・公開することで、観光で沖縄を訪れた人々に文化や平和について考えてもらえる絶好の機会になる、と牛島さんは考えている。

「日本軍の無謀な南部撤退によって日本軍、米軍、住民の三者が混在する戦場がつくられ、多くの住民が犠牲になりました。沖縄戦の核心ともいえるこの作戦を決定した司令部壕は極めて重要な意味をもつ戦跡なのです」

 牛島さんが、長年決心がつかなかった沖縄訪問に踏み切ったのは1994年。小学校教諭として平和教育に携わり、いや応なしに祖父の足跡と向き合うことになった。95年以降、毎年のように沖縄に通い、沖縄戦に関する調査を続ける牛島さんが最もこだわってきたのが「南部撤退」だ。

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渡辺豪

渡辺豪

ニュース週刊誌『AERA』記者。毎日新聞、沖縄タイムス記者を経てフリー。著書に『「アメとムチ」の構図~普天間移設の内幕~』(第14回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞)、『波よ鎮まれ~尖閣への視座~』(第13回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)など。毎日新聞で「沖縄論壇時評」を連載中(2017年~)。沖縄論考サイトOKIRON/オキロンのコア・エディター。沖縄以外のことも幅広く取材・執筆します。

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