しかも千明は、走り幅跳びという競技を、まだ微かに目が見えた子ども時代にもまったく目にしたことがなく、競技のイメージすらできなかった。そんな無謀ともいえる挑戦になぜ取り組んだのか。千明はケラケラ笑いながら言う。

「決まっているじゃないですか、パラリンピックで金メダルを取りたいからですよ。陸上100メートルの強豪選手は世界にたくさんいるけど、恐怖心が邪魔する走り幅跳びは競合選手が少ない。可能性の高い方を選ぶのは当然でしょ」

 全盲クラスの陸上100メートルと走り幅跳びで日本記録を持つ千明は、妻、母、会社員、大学講師など多面体の顔を持つ。一方、聴覚障碍者(ろう者)である夫の裕士(ゆうじ)(36)は、オリ・パラの翌年に開催されるデフリンピック(聴覚障碍者のオリンピック)に400メートルハードルやリレーで3大会出場している現役陸上選手。千明と裕士は、いわゆるスーパーアスリート夫婦でもあるのだ。

 この夫婦と話していると、二人が障碍者だということをつい忘れてしまう。レストランに入れば、目が見えない千明に代わって裕士がメニューを読み上げ、耳の聞こえない裕士に代わり千明が店員に注文する。そんな仕草があまりにも自然なため、千明につい「箸を取って」などと声をかけ、裕士には気遣いなく話しかけてしまう。

「二人で半分こずつ」。千明は自分たち夫婦のことをそう表現する。「私は裕士の耳、裕士は私の目。二人合わせて一人前」

 千明は目が見えないのに手話や指文字を使い、裕士は耳が聞こえないのに濁りのない日本語を操る。彼らと接しているとそれが当たり前のように思ってしまうが、そもそも、視覚障碍者が手話を使うことは少なく、聴覚障碍者が明瞭な発音を口にするのは稀といってもいい。

 人間の五感による情報判断の割合は、視覚が8~9割と言われている。多くの情報収集手段を失ってしまったはずの千明が、腹の底から湧き出るような笑顔を見せ、無謀ともいえる挑戦を可能にしてきた。艱難辛苦を鉄の胃袋でのみ込み、それを心の栄養としてさらに上を目指すという成長の循環を、千明は体得しているようにみえる。

(文・吉井妙子)

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