こうした自立的な遊女のありかたは、15世紀後半から16世紀にかけて変化する。「遊女の家」の経営権を次第に失い、遊女の身体を男性たちが売買する動きが強まっていったのだ。

戦国時代を経て、統一政権が誕生し、城下町ができる中で男性が経営する遊女屋が遊女たちを抱えて売春させる『遊廓』が生まれました。遊女は自営業者ではなくなり、多くが人身売買で連れてこられ、経営者に奴隷的な従属を強いられたのです」

■遊女屋は投資の対象

 京都では1589年、江戸では1617年に遊女町を置くことが公に認められる。江戸では明暦の大火以後、新吉原に遊廓が移転。大阪、長崎にも遊廓設置が認められ、宿場や湊町などに私娼の飯盛女(めしもりおんな)を置く売春営業も黙認された。こうして江戸時代には各地に売買春の場が生まれ、「売春社会」というべき状況が現れた。

 遊女屋経営には資金が必要だ。遊女を調達するための身代金、遊廓でのイベント料、多発する火事への備えも欠かせない。資金調達のために庶民向け金融の一つ「寺社名目金貸付(じしゃみょうもくきんかしつけ)」などが利用されていた。

 新吉原の遊女屋たちが利用していたものに京都・浄土真宗本山佛光寺による名目金貸付がある。この貸付に、幕末になると北信濃の豪農たちが積極的に「差加(さしくわえ)金」として出資したことを示す史料が残っている。担保は遊女たちの身体で、保証人は同じ遊女屋に限られていた。

 遊廓を公認するという幕府の政策が、近世社会を構成する寺社や豪農たちによる広域金融ネットワークを作り出した。そして遊女の性を収奪した利益に有力寺院、公家、豪農までが群がる構造を生み出すに至った。

■遊女たちの抵抗

「1800年以降、幕府が倒れるまでに新吉原では23回もの火事が起こり、そのうち13回は遊女による放火でした。11回は遊廓が全焼しています。偶発的なものばかりではなく、1849年には梅本屋佐吉の抱える遊女16人が合議を重ねたうえで集団で放火し、その足で名主(なぬし)のもとに自首し、抱え主の非道を訴える事件も起きています」

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