遠足ではあちこちにあるお地蔵さんの前でいちいち足を止め、丁寧に拝む。そのたびにみんなが待つことになるのだが、子どもながらに千がお地蔵さんと通じ合っていることを感じ、「待つのは全然嫌じゃなかった」と言う。小学校5年の時には天台宗のトップである天台座主・山田惠諦に出会い、「恋に落ちるように」(千)夢中になったほどである。千の中には子どもらしい幼さと、大人でも追いつかないような精神性が同居していた。

 小学校を卒業すると、関東にある全寮制の私立中学に入学した。だがそこには仏教好きの茶家の少年の居場所はなかった。「私の暗黒時代」というほど孤立に苦しんだ千は、京都へ戻り比叡山中学へ転入する。

「今思うと、一度外に出たことは良い経験でした。家のことを新たな興味を持って見られるようになり、お茶に対しても自覚的になりましたから。京都に戻った1年後に父の家元襲名や『千利休四百年忌』という大きな行事が続き、たくさんの茶事の経験を積んだことも大きかったです」

 茶道と縁のない人が想像する「茶会」とは、ほとんどの場合、広間に着物姿の人がずらりと正座し、お茶を飲む「大寄せ」の茶会だろう。足が痛そう、堅苦しそう。退屈。そんなイメージである。

 だが少数の客が招かれる「茶事」は、まず懐石料理が出され、ゆったりと酒をくみかわしたのちに濃茶と薄茶が振る舞われるという、ごく親密な集まりである。その日の客のために何日にもわたって考え抜かれた趣向があり、道具組みや花があり、料理がある。何よりくつろいだ会話がもてなしだ。千は、父と客の間に漂う温かい空気を共に吸い、学んだのだ。

 大学は慶應義塾大学へ進んだ。環境情報学部を経て文学部美術史学専攻へ学士入学、その後大学院で中世日本絵画史を専攻する。一人の研究者としても研鑽を積んだ。

 大学4年の時には前出の川瀬敏郎、詩人の高橋睦郎、上皇后のデザイナーとして知られた故・植田いつ子、歌人の水原紫苑や、大学時代に湘南藤沢キャンパスで立ち上げた茶道部の友人が弟子となり、「放下会」がスタート。その後は若手の経営者や公認会計士などの男性が集まる「碧雲会」や、アーティストやデザイナー、編集者らが集まる稽古場と弟子は増えていった。点前の順序やマナーを教えるだけでなく、千が惜しみなく貴重な道具を使い、深い知識を伝えてくれるからである。(文・千葉 望)                                                 

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