写真は2006年に公開された「蒙古襲来絵詞(模本)」。前原市井原の伊都国歴史博物館にて(c)朝日新聞社
写真は2006年に公開された「蒙古襲来絵詞(模本)」。前原市井原の伊都国歴史博物館にて(c)朝日新聞社

『戦国武将を診る』などの著書をもつ産婦人科医で日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授の早川智医師は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は、元寇とペストについて「診断」する。

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 今年は梅雨明けが遅かったが、太平洋高気圧が弱いためか、まだ台風が来ない。昨年のひどい台風経験からすると、貯水量さえ確保できればこのまま来ないでもらいたい。台風は毎年のように各地に被害をもたらしているが、唯一、日本を救ってくれたのは1281年秋に九州を襲った大嵐「弘安の役」の神風である。実際、モンゴルと高麗、宋の連合である元軍は恐ろしい大敵であったが、元寇を神風が追い返してくれた。だが、本当にありがたかったのは、当時アジアから欧州にかけてパンデミックとなったペストを日本に持ち込まなかったことである。

 人類は過去において、3回のペスト大流行を経験している。最初は、6世紀に東ローマ帝国を襲った「ユスティニアヌスのペスト」で、名君ユスティニアヌスも罹患し、幸い生命はとりとめたものの、国民の多くが死亡して国力が低下し、彼の夢だった東西ローマ統合は達成できなかった。

■史上最大のパンデミック

 2回目となる史上最大のパンデミックは14世紀初頭、モンゴル帝国によるユーラシア大陸中心部の支配とシルクロードによる交通路が確立することにより、中央アジアの地方病が東は中国へ、西は中東からヨーロッパに広がった。1331年に河北で発生した疫病は市邑(しゆう)の9割の人を殺し、1353-1354年には全土(山西、湖北、河北、江西、湖南、広東、広西、綏遠)で人口が半減したという。

 ヨーロッパでは1347年中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した。コンスタンテイノポリスから輸出された黒海沿岸の毛皮に寄生した蚤が原因とも、船に紛れ込んだクマネズミが原因ともいわれるが、瞬く間にアルプス以北やイギリスにも広がり、ヨーロッパ人口の3分の1から3分の2が死亡したという。「死の舞踏」や「Memento mori(メメント・モリ)」といった厭世的(えんせいてき)な美術や、病を逃れるための鞭打ちなどの苦行が流行する一方、病を逃れて郊外に疎開した人々の艶笑譚(えんしょうたん)を集めたボッカチオのデカメロンは1353年である。

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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元寇とともに「ペスト」の可能性