──終末期の患者らが自分の意思で治療をやめる「尊厳死」の議論に結びつける傾向もあります。

 順番を間違えています。人を追い詰めていく社会そのものを治療しない限り、個人の尊厳の議論にはなりません。個人の尊厳が成立していないことのほうが大問題です。つまり、結果として「生きていてもしょうがないよね」という社会があって、生きていてもしょうがないという意味での尊厳死に過ぎないのなら、それは個人の尊厳と言えないのではないでしょうか。

──奥田さんは、2016年にあった津久井やまゆり園(神奈川県相模原市)の重度障害者殺傷事件で、死刑判決を受けた植松聖死刑囚にも面会されました。

 相模原の事件も今回の事件も、背景には体が動かない人は周りに迷惑をかけているという価値観が時代の言葉として存在しています。植松死刑囚は「役にたたない命」「生きる意味のない命」という言葉を使いましたが、彼のオリジナルではなく、時代の言葉でしょう。今回の事件も含めて、社会のあり方そのものを問わないといけません。

 しかしその答えはありません。例えば、尊厳死の問題で法律を作って安心しようとしても、やはり「これで良かったのか」という問いは残り、そうした問いが社会を作っていきます。人間には限界があり、答えを出すことが難しいこともあります。

──死を選択しそうな人と出会ったとき、私たちはどうしたらいいでしょうか。

「社会が悪い」「命は尊い」と、いろんな理屈はありますが、最終的にはその人と出会った一人として「私は死んでほしくない」と言い切らなければいけないし、その方がはるかに意味があります。共感や想像する力が欠け落ちたこの時代に、その人が負わされている絶望や苦難に寄り添うことが原点だと思います。

(構成/編集部・小田健司)

AERA 2020年8月10日号-17日合併号