当時は、最初に薬物学を学んだ薬剤師がさらに解剖や外科手術のトレーニングを受けると医師になる道があったのだった。もちろん、相当優秀でないとこの道が開けないことは言うまでもない。そして王立外科学会会員資格を得るため、ガイズ病院、聖メアリ病院といった一流病院で研修を受けた。研修医の間に終生の友となる詩人シェリーに出会ったのがきっかけで詩作を始め、1817年処女詩集を出版、さらに翌年には「エンディミオン」「霧に包まれた詩神」を発表し、才能のある若手詩人としての世間の評価を得た。

 1817年ガイズ病院を退職、1818年にはワーズワースを湖水地方に訪ね、さらにアイルランド、スコットランドを歴訪、秋にはフランセス・ブローン嬢に会い、婚約する。詩人としての評価も高まったが、1820年2月に激しい喉の痛みと咳に見舞われ、翌年には喀血(かっけつ)を繰り返すようになった。母フランシスに続いて1818年に弟トマスを結核で亡くしているキーツは自分の運命を自覚し、同年10月には転地療養のためローマに移住した。

■最新の医学教育を受けた詩人

 ローマでは英国人医師ジェームズ・クラークが開業しており、瀉血や乗馬療法など体力をむしろ消耗させる治療を勧めた。クラーク医師は後にベルギー国王レオポルド1世の侍医、さらに母国英国女王ビクトリア一家の主治医となり従男爵位を与えられるなど出世を遂げるが、女王の侍女の卵巣がんを妊娠と誤診したり、ビクトリア女王の夫君アルバートの発疹チフスを風邪薬で様子をみて悪化させたりと臨床能力にはいささか問題があったようである。

 さて、キーツは療養のためスペイン広場の脇のアンジェリエッテイ家に下宿したが、1820年12月にはベッドから起き上がれなくなり、翌1821年2月23日に26歳で異国の地に亡くなった。異教徒(英国国教徒)であったため、遺体は郊外の新教徒墓地に葬られることになる。

 後にキーツの死はありあまる才能が世間に受け入れられないため鬱になって亡くなったという伝説が生まれ、薄幸の先輩詩人をモデルにした詩人バイロンによる長編詩「ドン・ジュアン」を発表した。しかし、埋葬に先立って遺体はクラーク医師の執刀で剖検を受けたが、「肺は結核病変に置換し、広範に破壊されていた」と記載されている。剖検結果が公表されていればこのような誤解はなかったかもしれないが、「ドン・ジュアン」もなかったであろう。

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結核が性欲を亢進という迷信