しかし、ニュー・アルバム「ラフ&ロウディ・ウェイズ」は違う。最初からこの作品には、様々な危機に直面する現代社会に向け、激しい主張を込めている。例えば、新型コロナウイルスが世界を脅かすようになったこの3月下旬、ディランは「どうぞ安全に過ごされますように、油断することがありませんように、そして神があなたと共にありますように」という言葉を添え、17分近くに及ぶ新曲「最も卑劣な殺人」(アルバムにはディスク2として収録)をリリース。この曲では、1963年11月22日にテキサス州ダラスで起こった当時のアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディ暗殺事件のことが歌われる一方、ビートルズ、リトル・リチャード、エヴァリー・ブラザーズといったその当時の人気アーティストの曲名もふんだんに盛り込んでいる。しかしながら、ディランは半世紀以上昔の時代の風景をただ切り取っただけではない。今の時代に、その風景を重ね合わせようとしたのではないだろうか。21世紀に入って20年近くが経過した現在、果たして世界はあの当時と何かが変わっただろうか、と。

 アメリカを筆頭に世界各地でナショナリズムに拍車がかかり、人種差別はいっこうになくならない。くしくも、ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官によって死に至らしめられたことに端を発する抗議デモと、そのスローガン「Black Lives Matter」が世界規模で叫ばれるようになった。「最も卑劣な殺人」はまるでこの一件を予言していたかのような曲だ。

 先行曲として公開された「偽預言者」に至ってはさらに挑発的でさえある。「俺は裏切りの敵」あるいは「俺は誰にも負けない」などとうそぶく歌詞からは、ニヒリズムと反骨心の両方を兼ね備えていることの強さが伝わってくる。今の時代に対峙するディランからの強烈なカウンターパンチのような一撃だ。

 曲調は1940年代以降のブルーズやR&Bを下地とした骨太でしなやかな演奏と、たおやかなメロディーとが交錯する、実にヒューマンなタッチだ。ディランを支えるバンド・メンバーも、静かに怒りを燃やしながらも、その魂の炎を消すまいと言葉と旋律を丹念に綴る彼の横顔をしっかりとバックアップ。最終的にとても厳しく辛辣な人間讃歌とも呼べるような歌世界を創出している。

 これが79歳のボブ・ディランだ。ふと、見渡してみると、2020年、こんな歌を作り、表現し、そして世界中の多くの人の耳に届けることができる人は他にいるだろうか。50年前の時代を知っているディランだからこそ、そして、それ以降の時代の変遷を言葉と音楽の観点から見てきたディランだからこそ、社会を批評し、豊かなる日々を追い求めることができるのではないだろうか。頂点に立つということは、つまりはそうした使命感に今なお突き動かされているということなのである。
(文/岡村詩野)

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岡村詩野

岡村詩野

岡村詩野(おかむら・しの)/1967年、東京都生まれ。音楽評論家。音楽メディア『TURN』編集長/プロデューサー。「ミュージック・マガジン」「VOGUE NIPPON」など多数のメディアで執筆中。京都精華大学非常勤講師、ラジオ番組「Imaginary Line」(FM京都)パーソナリティー、音楽ライター講座(オトトイの学校)講師も務める

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