東宮様とは上皇さま(86)、皇后様は香淳皇后、勢津君様は秩父宮妃勢津子さま、喜久君様が喜久子さま。美智子さま(85)という民間出身女性との間で、長男の縁談が進んでいる。母親がそのことを愚痴る相手の一人が喜久子さま、という記述だ。

 元日本テレビプロデューサー・渡邉みどりさんの著書『美智子皇后の「いのちの旅」』にも喜久子さまは出てきた。渡邉さんが総合演出をした「皇太子ご夫妻銀婚式に捧ぐ」に登場したという記述だ。放送は84年、上皇さまと美智子さまの銀婚式の特別番組で、美智子さまが結婚当初よりやつれたことについて喜久子さまは、「いちいち気をおつかいになるから、お太りになれないんですよ」と述べたと書かれていた。

 失礼を承知で正直に書くが、この2冊で私は喜久子さまを「怖いおばあさま」と認定した。拍車をかけたのが02年4月、陛下(当時は皇太子さま)と雅子さまの記者会見だった。

 前年12月に愛子さまが生まれたことを受けての会見だった。最初の質問は「懐妊、出産に際しての率直な気持ち」で、2問目はこうだった。<高松宮妃喜久子さまが月刊誌の寄稿で、(略)「好もしい出産の順序として、俗に『一姫二太郎』とも申します」と書かれましたが、手記を読まれて両殿下はどのようなご感想をお持ちですか>

「婦人公論」に掲載された喜久子さまの手記「<敬宮愛子さまご誕生に想う>めでたさを何にたとへむ」にこと寄せて、生まれたのが「男子」でなかったことを聞いていた。記者の戦略としてはわかるが、酷な質問だ。雅子さまの「適応障害」が発表されたのは、この2年後。世継ぎ問題が大きく影響したに違いない、と今なら言える。

 会見当時、雅子さまがどこまで追い詰められていたかはわからない。だが、国民の中には「男の子でなかった」ことへの複雑な思いが確かにあった。だから私は喜久子さまの「一姫二太郎」を会見で知り、ますます「怖いおばあさま」と認定した。が、恥をしのんで告白するが、手記は読んでいなかった。

 令和になり、活躍する雅子さまを書くことが増え、資料をあれこれ読んだ。中に喜久子さまの手記もあった。読んですぐ、「怖いおばあさま」でないことがわかった。「一姫二太郎」と書いた後、「もっとも、『二太郎』への期待が雅子妃殿下に過度の心理的負担をお掛けするようなことがあってはなりません」としていた。雅子さまの置かれた状況の過酷さをわかっていたと思わせる表現だった。そこから続く文章は、そっくり引用する。

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