■信念は生物学的統治

 彼の信念は「生物学的統治」で、「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉(ちしつ)し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。

 英国の歴史家マーク・ピーティは「日本の植民地帝国は、外観では西洋諸国の熱帯植民地をモデルにしていた。しかし、(中略)直接ヨーロッパの先例を模倣したというよりも、徳川時代の封建的秩序を打ち破り、維新以来の30年で成功した日本自身の近代化の努力をモデルとしていた」(『植民地 20世紀の日本帝国50年の興亡』)としている。もちろん、異民族支配を受けた朝鮮半島と台湾の人々には迷惑だったであろうが、治水や土木、鉄道や道路、発電所などのインフラ整備、初等教育の普及から内地に先駆けて京城と台北に程度の高い医学部を擁する帝国大学を作り、医学教育のみならず医療と衛生向上に貢献した人々がいたことは認めてもよいと思う。

 ただ、それほど違った統治を行ったわけでもないであろうに、今日の韓国と台湾の対日感情の差が大きいことを見ると、帝国陸軍の大将中将が代々総督を務めてきた朝鮮と、後藤新平ら民間人と海軍提督が統治した台湾の差かもしれない。

■大災害での感染症を抑えた

 第二次大戦後に大陸から逃げてきた国民党政府の圧政に対する反感や、ここ数年の中国の台頭と併呑への反感などさまざまな理由はあるにせよ、後藤新平は今でも台湾において、ダムをつくった八田與一や教育の普及と精糖産業を興した新渡戸稲造とともに尊敬されている。

 後藤は明治36年(1903年)、貴族院勅選議員となり、終生在籍した。帰国後も満鉄総裁、拓殖大学学長などを歴任したが、最大の功績のひとつは関東大震災で破壊された東京を、当時市長の任にあった後藤が短期間で復興したこと、大災害につきものの感染症の流行や流言飛語をいち早く抑えて、人々の安心安全を回復したことである。これには、後年、昭和になって統帥権独立を唱えて横暴化する軍部も、党利党略に奔走する二大政党も協力したことは言うまでもない。

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「よく聞け、人を残して死ぬ者が上だ」