「明るくてイジイジしないというか、あっけらかんと受け流すところは大したものだなと思います。ニュースを扱う番組はいろいろ大変なことがあり、殺伐とした現場でも飄々とやっている。彼女は『私が……』と前面に出ないで、ちゃんと相手を立ててくれます。それでいて引っ込み思案ではなく、バランス感覚も優れている。以前から彼女にはもっと表に出てほしいという思いがありましたね」

 局の看板アナウンサーであった宇賀の退社は注目を集めた。09年に入社してから10年。ある程度仕事もできるようになった宇賀は、これからどう生きていこうかと考えたという。

「もっと自分らしい生き方があるかもしれないと。だったら、個人的に働き方を改革していけばいいと思ったんです」

 宇賀にとって身近な「働き方」のモデルは両親だった。建築家の父(66)は仕事の話をよくしてくれ、設計したビルやホテルを見せてくれた。保育士の母(59)もいつも楽しそうで、愚痴を聞いたことがない。好きなことを仕事にできる生き方に憧れ、自分も「早く大人になりたい」と願っていた。

 東京・練馬で生まれ育った宇賀は「とにかく元気で負けん気の強い子。おしゃべりが好きで、自分で作った歌もよく唄っていました」と母は言う。休日には家族で公園や海辺へ出かけ、スキーや旅行も楽しんだ。旅先のホテルでは、「ビデオカメラを向けると、『こちらがリビングです』『お風呂場です』などとアナウンスしてくれました」と父も目を細める。

 小学生の頃は、男の子たちと外で走り回り、足はあざだらけ。読書や物語を書くことも好きで、家族のために新聞を制作。卒業文集には「新聞記者かアナウンサーになりたい」と綴っていた。

 3歳違いの妹とは仲が良く、ずっと交換日記を続けていた。妹にとって、姉はまぶしかった。

「めちゃくちゃ可愛かったし、スタイルが良くて勉強もよくできる。後輩や先生からもすごく人気がありました。私が同じ中学へ進むと、『あっ、宇賀先輩の妹が入ってくる』とざわめくような。それが羨ましくもあり、ずっと憧れていたんです」

次のページ
狭い世界が息苦しい