撮影当時55歳。すでにお笑い界の“重鎮”だったが、朝日新聞の取材で自身を代表するギャグ「アイーン」ポーズを見せてくれた (c)朝日新聞社
撮影当時55歳。すでにお笑い界の“重鎮”だったが、朝日新聞の取材で自身を代表するギャグ「アイーン」ポーズを見せてくれた (c)朝日新聞社
西条昇(さいじょう・のぼる)/1964年生まれ、東京都出身。江戸川大学教授、お笑い評論家。主な著書に『ニッポンの爆笑王100』など(写真:本人提供)
西条昇(さいじょう・のぼる)/1964年生まれ、東京都出身。江戸川大学教授、お笑い評論家。主な著書に『ニッポンの爆笑王100』など(写真:本人提供)

 3月29日、志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。享年70。1974年に「ザ・ドリフターズ」の正式メンバーになって以来、40年以上第一線で活躍。AERA 2020年4月13日号では、志村さんと一緒に仕事をした経験を持つ江戸川大学教授でお笑い評論家の西条昇さんが、志村さんの思い出について寄稿した。

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 私が初めて“生”の志村けんさんを見たのは小学生の時。浅草・国際劇場での「小柳ルミ子ショー」に、志村さんは「マックボンボン」というコンビで出演していた。確か野球のコントだったと思うが、志村さんがかかと落としのように足をグーンと上げて、相方の頬を足の裏で張り倒す場面が印象的だった。

 それから1年ほどして、志村さんはザ・ドリフターズ見習いとして「8時だョ!全員集合」に登場するようになる。そして74年、荒井注さんに代わってドリフに正式加入。懸命に動きまわる熱演を見せるも、志村さんのキャラクターが浸透しない状態が2年近く続いた。

 ブレークのきっかけは76年、「東村山音頭」の大ヒットだった。股間から白鳥の首の伸びたチュチュを着て「イッチョメ、イッチョメ、ワ~オ!」と叫ぶ姿は衝撃的だった。これで一気に観客を味方につけた。多くの人の記憶に残る、「志村~、後ろ、後ろ!」は、背後に迫る危険に気づかないキャラの志村さんに対し、感情移入した観客の子どもたちが思わず叫んだ言葉だ。

 その志村さんと、88年から「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家として1年間、仕事をご一緒させていただくことになった。しかも、毎週あるコントの台本会議では、志村さんの隣に座った。

 憧れの志村さんは、コントで見せるバカバカしさとはうってかわって、真剣な表情で一点を見つめ、静かにギャグを考えていらした。何より驚いたのは、その勉強熱心な姿勢と、それに裏打ちされたギャグの貯蔵量の多さだった。

 海外から取り寄せたコメディー映画やコント番組のビデオを深夜の自宅で倍速で再生し、面白いところだけを通常速度で見ていると聞いた。古い無声喜劇映画の自主上映会や藤山寛美の松竹新喜劇、桂枝雀(かつらしじゃく)の落語会にも足を運んでいるとのことだった。

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