当時、ウィーン総合病院には二つの産科があり、医学部学生が実習をしていた第一産科では、産婦の10%以上が産褥熱により死亡していた。一方で、助産婦が訓練を受けていた第二産科の死亡率は4%であった。ゼンメルワイスは病棟の込み具合や関与する医療スタッフの数、換気状態などをしらみつぶしに調べていたが、友人の病理学者ヤコブ・コレチカが産褥熱で死亡した患者の剖検中に誤ってメスで指を傷つけ、その後自身が産褥熱に似た症状で死去したことから、死体から目に見えない微粒子が侵入したという仮説を立てた。第一産科の研修医たちはがんの患者を診察し、亡くなった患者の遺体を解剖し、同時に分娩管理をしていたのに対し、第二産科の助産婦の卵たちは妊婦しか診なかったからである。

 彼は、これを解決するため、診察の前後に汚水処理に使われていたさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)後には、昇汞(しょうこう。塩化水銀)を使って手を洗浄することを始めた。その結果、第一産科の死亡率は1847年4月の時点で18.3%だったのが、わずか3カ月後の7月には1.2%に激減した。それまでも研修医は手を洗ってはいたが、洗い方はおざなりで、前掛けや手ぬぐいで繰り返しぬぐっていただけなのである。

■先駆者の悲劇

 しかし、ゼンメルワイスは20年後に石炭酸(フェノール)による手術野の消毒で世界的名声を得たイギリスの外科医ジョゼフ・リスター卿とは対照的に、世間や医学界に受け入れられることはなかった。上司であるクライン教授に無視されただけでなく、病理学の大御所、フィルヒョウ教授にも嫌われた。そうして、ウィーン大学の職を追われたゼンメルワイスは、当時は田舎大学だったブタペスト大学(現在では彼の名を冠したゼンメルワイス大学というハンガリー最高学府)に職を得たのだった。

 ここでも多くの医師たちには受け入れられなかったが、頑固に「手洗い」を勧め、当然ながら産褥熱や他の感染症を激減させた。が、不幸にして病を得て1865年、47歳の若さでなくなった。晩年は精神を病み、院内で看護士に暴行を受けた創傷感染とも神経梅毒が原因であったともいわれるが、詳細はわからない。トールワルドの本では、最後に診た産褥熱患者からの院内感染としているが、亡くなる前の数カ月は入院していたのでこれは著者の脚色であろう。

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「悲劇の医師」に欠けた努力