日本では、2人に1人が生涯にがんになり、年間100万人ががんと診断される。がんは1981年以来、死因の第1位でもある。

 人は自分や家族ががんになると、戸惑い、ときに死を意識する。人生を振り返り、今後どう生きるかを考える。そこで、がんを科学的に、人生を哲学的に学び、がんと共存していく。大まかに言えば、それが「がん哲学」である。樋野は「生物学の法則と人間学の法則を融合した」と言う。

 各地で毎日のように行う講演でも、面談同様に、ヒントになりそうな言葉を繰り出す。

「八方ふさがりでも、天は開いているよ」

「夢を追いかけると逃げる。持ち続けると、夢から寄ってくる」

「困っている人とは一緒に困る。犬のおまわりさんだね」

「人生には、(過去の経験が)もしかするとこのときのためだったのでは、と思うときが来る」

「(象の横に子どもが座る写真を見せて)支えることはできなくても、寄り添うことはできるよ」

「ゲーテは言ってるよ。『涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない』と」

 19年12月には、東京都文京区の小学校で6年生に授業をした。大人向けとほぼ変わらない、小学生には高度な内容だ。だが、感想文を読むと、

<「がん」も個性という話を聞き、考え方が変わった気がします>(女子)

<「病気であっても普通に接する」と聞いて、「がんと共存」し、心配しすぎないようにすることが大切だと思いました>(男子)

<特に印象に残ったのは人との関わり方です。人を評価することはやめようと思います>(男子)

 などと、それぞれの感性で、自分なりに受け止めたことがわかる。樋野はこう語った。

「子どもたちの中に、将来残る言葉が、ひとつでも二つでもあればいい。僕の授業は、大学生は半分寝る。でも、小学生は全員、起きてるよ」

 樋野には40冊近い著書がある。何冊かは英語、中国語、韓国語、ベトナム語に翻訳されている。

 1954(昭和29)年3月7日、樋野は、出雲大社から北へおよそ8キロにある島根県大社町(現出雲市)の鵜峠(うど)で生まれた。「出雲風土記」にも登場する、日本海に面した小さな村だ。

 姉が2人いる。興夫という珍しい名前は、「家を興す」という願いを込めて、船乗りだった祖父の卓郎が付けた。母の寿子(としこ)の兄2人が戦死したのだ。父の廉平(れんぺい)は婿養子で、貨物船やタンカーの機関長をしており、年に1、2カ月しか帰らなかった。家は広く、ニワトリを飼い、ヘビやイノシシが部屋に入ってきたこともあったらしい。

 村に医師はいない。樋野が病気になると、母が背負い、トンネルを抜けて数キロ先の鷺浦(さぎうら)にある診療所まで連れていった。山道を母の背中で揺られながら、3歳のころから、子ども心に「大きくなったらお医者さんになろう」と決めたという。(文/中村智志)

※記事の続きは「AERA 2020年2月24日号」でご覧いただけます。