この文書は米政府の特別監察官チームが、米国務省幹部や米軍高官など計約600人以上に対し聞き取り調査を行った記録で、約2千ページに達する。

 文書は公表されなかったが、「ワシントン・ポスト」は16年から情報公開法によりその開示を求める法廷闘争を続けて勝訴した。政府側は「軍事機密」を主張して公開を阻止しようとしたが、裁判では「軍事機密に当たらない」と判断されたという。

 アフガニスタン戦争の発端は01年9月、ニューヨークの世界貿易センターとワシントン郊外の国防総省に旅客機が突入した同時多発テロだ。米国はアフガニスタンに滞在していたサウジアラビア人オサマ・ビンラディンがその首謀者とみてアフガニスタンに引き渡しを求めたが、同国のタリバーン政府は「証拠を示せば引き渡す」と回答した。

 犯罪人の引き渡しに証拠を求めるのは国際的な原則で、アフガニスタンの回答にも一理あるが、米国は当時まだ証拠を示せなかった。にもかかわらず、米国は「アフガニスタンはビンラディンをかばっている」として攻撃した。

 激しい航空攻撃、巡航ミサイル攻撃や、タリバーンに制圧されていたアフガニスタンの地方軍閥と米海兵隊の共闘などにより、タリバーン政府は崩壊した。だがビンラディンの所在は不明、タリバーン兵たちはパキスタンに避難したり、武器を携帯して故郷に戻ったりしており、タリバーンの勢力が消滅したわけではなかった。

 米国が擁立した親米政府は米国帰りの亡命者を中核としたが、幹部の行政能力は乏しく、外国からの援助資金の横領と分配に熱中したため国民の信頼を得られず、タリバーンは勢力を回復。特に05年以後、戦闘が激化した。(軍事ジャーナリスト・田岡俊次)

AERA 2020年2月10日号より抜粋