取材を始めたころ、福本はそう語った。彼の演劇人生は松下抜きには語れない。そのことは後で触れるとして、まずザ・ニュースペーパーとは――。

 劇団「民藝」出身の渡部又兵衛(69)が率いる男ばかり10人のコント集団。1988年11月、仲間と共にザ・ニュースペーパーを旗揚げした。「風刺コントはニュースの本質を伝えるものだ」と渡部は言う。「昔のような毒がなくなった」という声もあるが、客層は広がり、ファンは着実に増えている。

 冷たい雨が降る12月初旬、博品館公演に向け「ネタ合わせ」が東京・中野の稽古場で行われていた。

「桜を見る会だけど、総理主催でしょ。好きな人を呼んでなぜ悪いの」

 演出の寺田純子(66)が挑発的に問う。「議論すべきは日米貿易交渉ですよ。こっちが陰に隠れてしまったのが問題だ」と若手の土谷ひろし(42)。福本が「沢尻エリカの逮捕はサクラ隠しと言われたが、サクラは日米交渉隠しに使われたんでしょう」と突っ込む。

サイレントマジョリティーは怒っていないわよ、サクラなんて」と寺田。山本天心(57)が「今日の新聞では『首相の説明に納得できる』と答えたのは17%だった。しかし、寺田さんみたいな人が17%もいたとは驚きだね」。

 議論というより、ニュースの奥を読む頭の体操。どんなコントができるのか、と身を乗り出したら、「ではこのへんで、あとは劇場で」と退席を促された。皆でコントを創る場は、舞台への貢献を競い、自らの出番を固める。稽古は陣取り合戦でもある。
 
 一座が生まれた88年秋は、昭和天皇が病床に伏し歌舞音曲の自粛が広がっていた。

「催しがつぎつぎにキャンセルされ、これじゃ正月を越せない。だったら、ご時世を逆手にとったコントで稼ごう、ということになったんです」

 一人(ピン)芸人として活躍する松元ヒロ(67)が言う。日本テレビの「お笑いスター誕生」で常連だった松元らの「笑パーティー」、松崎菊也、渡部ら新劇出身者の「キャラバン」、山本、浜田太一ら「ジョージボーイズ」がいた。みな食えない。合体して「ザ・ニュースペーパー自粛版」という舞台を始めた。新宿の地下劇場で、世間に隠れるように「笑い」を求める人の滑稽さを演じた。「右へ倣え」の音曲禁止への抵抗だった。(文/山田厚史)

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