『パンセ』はフランス語で読んだ。1600年代当時のフランス語だから、今の辞書にはない言葉もあって非常に苦労したね。理性が大切だと言っている科学者が、情熱はもっと大事だと言い、キリストに対する信仰をゆるがないものにしている。パスカルという人柄にひかれた。人間像を極めたいという願望は、我々の青春時代にはだれでもあった。それが私の場合、パスカルや道元だったんだね。

 『正法眼蔵』は全部は読まなかった。脇に置いておき、拾い読みする。自分の勘に入ってくるポイントが見つかるまであたっていく。

 今の世は複雑系。中心点がない山脈みたいなもの。だが、古典は富士山みたいなもの。独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)なのだな。

 道元にもあるが、人間は大宇宙のひとつの因縁。形はなくなるけれど、決して死なない。人生は、生まれる時から始まり、人と会ったり、学者なら学問研究したりでつくられる。そうした縁の総合体系が人生だ。また、縁の集大成が文化となり、文明となる。古典を読むという行為は、縁の大きな、不死のネットワークに自覚的に入っていくことなんだ。

※AERA 2006年8月7日号から再掲載